教育理念

読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。

わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!

苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。

慣用句や四字熟語はもちろん、和歌・俳句から文学史まで。国語に関して知っておきたい知識を、わかりやすくまとめてあります。

●国語以外もお任せ下さい!優秀な講師陣が全教科に個別で対応する「フィロソフィア寺子屋教室」も運営しております。
●小論文の持ち込み歓迎!通常授業に通えない方や、短期間で臨時に対策を必要とする方に、個別で小論文指導をします。
●一般向け講座、講演会、セミナーも実施!地域における学術・文化の拠点として、開かれた私塾を目指します。

フィロソフィア国語教室

〒168-0081
東京都杉並区宮前5-20-15

エリア:西荻窪・久我山・吉祥寺・荻窪

TEL/FAX:03-6454-2485

土台としての国語力

子供たちに最も大切なことを学んで欲しい。それは高度な国語力を身につけることである――フィロソフィア国語教室は、そのような思いから開校されました。
「国語力」という言葉は非常に曖昧です。何をもって「国語力」とするかは教師や専門家によって見解が分かれますし、学習指導要領が示す国語教育の目標も時代とともに変化してきました。
とはいえ、私たちが重視する「国語力」は、いたってシンプルです。
ちゃんと読み、ちゃんと書き、ちゃんと考える力です。
ここでの「ちゃんと」という言葉の真意は後ほど記しますが、この単純な「読む、書く、考える」ための力こそが全学力の土台になると私たちは考えています。
実際、どの科目を学ぶときでも、問題を解く過程の根底には、この三要素が潜んでいるはずです。
たとえば数学の問題への取り組み方を想像してみてください。
まずは、問題文をしっかりと読み、問われている事柄を正確に理解しなければなりません。これは「読む」作業だと言えます。
次に、そのようにして理解した問題の解き方を探ります。すなわち「考える」作業です。
最後に、自分の考えを筋道だった順番で文字式として記述し、答えを導き出します。これは「書く」作業です。
このように、「読む、書く、考える」という三つの作業は、国語とは大きく異なるように見える数学においても本質的な役割を果たしています。
数学だけではありません。どの科目の問題に取り組むときにも、実は同じように「読む、書く、考える」という営みが実行されます。
さらに言えば、勉強に限らず、およそ「問題」と呼ばれるものに対しては、それが日常生活におけるささやかな問題でも、社会や国家全体に関わる大問題でも、解決のためにはこの三つの過程を踏むことが必要となります。
目の前の困難を正確に理解し、解決策を考え、その考えを目に見える形にしていく―そこには、「読む、書く、考える」という流れがあることを確認できるはずです。
 国語教育を通じて私たちが育みたいのは、このような、あらゆる問題解決に役立つ「国語力」です。ただ試験の点をとるためだけの対策に取り組むことや、瑣末な知識をいたずらに増やすことは、私たちの本来目指すものではありません。長期的な視点に立って、子供たちが将来にわたって活用できる本物の学力を育むこと。それが、私たちの目標です。

国語と日常語の違い

ちゃんと読み、ちゃんと書き、ちゃんと考える力が、国語力であると言いました。ここで言う「ちゃんと」とは何でしょうか。
その説明をする前に、国語に関してよくある誤解に触れておきます。
国語なんて普段の生活で使っているのだから、わざわざ勉強する必要がない、という意見があります。あるいは、国語の問題が解けるかどうか、文章が書けるかどうかは個々人のセンスだから、習っても仕方がない、と言う人がいます。どちらも間違いです。これらの意見は、無意識に大きな誤解を前提としてしまっています。それは、国語が自然なものだという考えです。
ところが実際には国語は、奇妙に聞こえるかもしれませんが、日常生活で自然と使うものではなく、誰もが自然と身につけるものでもないのです。
考えてみてください。ある程度複雑な文章をちゃんと読むためには、日常生活で使う日本語よりもはるかに多くの語彙力が必要となります。また、文と文とのつながりを追って論理関係を読み取り、筆者が伝えたい肝心の主張を見抜いていくという作業をしなければなりません。私たちは日常生活でそのような頭の使い方をしているでしょうか。日常において言葉は、瞬間的にやりとりされ、表情や動作など言葉以外の様々な要素に支えられて使われているはずです。
あるいは、明確な主張を持つ文章を書こうとするとき、私たちは注意深く最適な語を探し、言葉の連なりと展開の明晰さに意識を働かせなければなりません。日常生活でそのように言語を用いることは、あまりないはずです。生活の中での自然な言葉は、脱線や省略や重複、さらには錯誤をこそ本質としているのではないでしょうか。
つまり、読解や作文で用いられる国語とは、人間が成長につれて自然と身につける言葉や、日常生活で使われている言葉とは別のものなのです。これは、書き言葉=文章語と、話し言葉=日常語の違いと言っても良いでしょう。
国語は文章語を規範とする言語です。したがってそれは、非日常的で、不自然な言葉だと言っても過言ではありません。そして、自然と身につくものではないからこそ、国語はしっかりと学ばれなければなりませんし、ちゃんと読み、ちゃんと書き、ちゃんと考えるためには、時間をかけた訓練が必要となるのです。

国語力とは何か

では改めて問いましょう。そのような訓練を通じて養うべき「国語力」とは、実際のところどのような力なのでしょうか。「ちゃんと読み、ちゃんと書き、ちゃんと考える力」といったとき、その「ちゃんと」とはどのような内実を持ち、「国語力」とは具体的に何を意味するのでしょうか。
私たちはそれを、「論理と概念を用い、批判的・複眼的に、読み書き考える力」だと考えます。
人は誰でも、はじめ外部にあるものとして言葉に触れます。他者の用いる言葉を吸収し、他者の思考法を理解して、徐々に自らの言語活動を展開していきます。
本来他者のものであった言葉を自らのものとしていくことがなぜ可能なのかと言えば、言葉には普遍性があるからです。 人と人の隔たりを越え、言葉と思考の普遍性を支えるものこそ、論理と概念です。日常語も言葉である以上は論理と概念によって成り立ちますが、文章語においてそれはより多様で複雑な展開を見せます。文章語に特有な、抽象度の高い概念と精妙な論理、それになじむことによって、他者の思考への理解は深まり、自己の思考の豊かさは増し、表現の正確さは強まります。
実際、文章を読むのが苦手な子や、書くのが苦手な子に典型的に見られる特徴は、抽象的な語彙の知識や文化的知識が不足していることと、論理展開を十分に追いきれないということです。反対に、読解力・記述力・思考力の高さとは、豊富な概念を身につけて論理を正確に操作できていることを意味します。
読み、書き、考える作業をさらに豊かにするのが、批判的、複眼的な姿勢です。他者の思考を前にして、それを客観的に理解するとともに、一方で同調や反発をする自己を認識して自他の違いに気づくことは、思考の多様性を知ることにつながります。著者の見解も自己の見解もともに絶対的なものとはせずに距離をとって向き合い、一つの事象への見方やこの世界の捉え方が無数にありうることを知る――それが、読むこと、考えること、書くことそれぞれの質を、大きく高める結果につながります。
実はこうした姿勢は、ルネサンス以降の近代ヨーロッパ文明が狂信や暴力と対峙しながら培った精神であり、大学を基盤とする現代の学問が最も重視する知性の本質にほかなりません。遠く古代ギリシアに淵源を持つこのような知性は、人文主義の勃興と印刷術の発明以降、文章に書かれた言葉と真剣に対峙する作業を通じて磨かれ、守られてきました。人間の知性に信頼を置き、人類の知的文化に継承の価値があると認めるのならば、批判的、複眼的な思考を身につけることは、今日の国語教育にとってもまた、忘れてはならない大切な目的であるはずです。
国語力とは、ちゃんと読み、ちゃんと書き、ちゃんと考える力。それは、論理と概念を用いて、批判的・複眼的に読み、書き、考える力。フィロソフィア国語教室では、毎日の微々たる日本語教育を通じて、そのような知性の働きを少しずつ鍛え上げていくことを目指しています。

実践知の育成

勉強が得意な子と苦手な子との大きな違いは、勉強のやり方自体にあります。勉強が得意な子は、効果的な勉強の進め方を実践できているのです。
受験勉強を例に出して説明すれば、効果的に勉強を進めるためには、まず自分の志望校がどのような問題を出し、どのような学力を求めているのかを知る必要があります。その上で、現在の自分の学力がどの程度であるのかを客観的に把握し、求められる学力と現状との差を、試験までの期間に着実に埋めていく方法を定めなければなりません。
そしてこの作業を実現するためには、日々の学習が全体の計画の中のどこに位置づけられているのか、学習内容が本当に理解できてちゃんと身についているのかを、絶えず意識することが大切です。
志望校と受験勉強、さらに自分自身に対するこのような意識とは、対象を客観化、相対化して分析する、批判精神の働きだと言えます。そして批判的な思考のあり方とは、前述したように知性の本質であり、高度な国語力の内実にほかなりません。
このような力は、受験勉強を終えたあとも、将来的に役立つはずです。目標と自分の現状とを批判的にとらえ、達成のための方法を自ら設定し、日々自覚的に課題の達成に取り組むことは、問題解決一般における効果的な取り組み方だからです。また、そうした力を養う過程で自ずと身につく幅広い知識は、私たちの生きる世界への見方をより広く、より深くしてくれるはずです。その意味で国語力とは、先の見えぬ世をよりよく生きるための「実践知」であると言うことができます。
むろん、本当に困難な課題に対しては、このような合理的な問題解決の手法には限界があります。あるいは日常生活において繰り返し直面する小さな諸課題に対してさえ、合理的な解決は図れないことの方が多いかもしれません。しかし正解の出せない大小さまざまな課題に挑むとき、大切なのは、答えの出せないそのややこしさに留まって、あたかも難解な文章に挑むかのように不可解さと粘り強く向き合い続けることです。そこにはやはり、批判的に分析、思考し続けられる力、つまりは実践知としての国語力が不可欠なのではないでしょうか。
さらに言えば、現代の複雑な社会を生きていく上でも国語力は大きな意味を持ちます。制度上、誰もが政治判断を求められる民主主義社会においては、個々人の高度な判断力が求められます。私たちは正解がどこにもない中で、迷いながらもそのつど何らかの政治的判断を下さなければなりません。そのとき、専門家ではない一市民にとって大切なことは、目の前の現象を批判的にとらえ、他者と見解を交わしながら複眼的に思考して最善と思える答えを導き出すことです。
誰もが否応なしに難しい諸問題への対応を求められる現代社会では、批判的、複眼的な思考力が不可欠であり、そもそも現代の教育制度自体も、本来はそうした要請から組み立てられています。ちゃんと読み、ちゃんと書き、ちゃんと考える力は、民主主義の制度が続く限り、誰も無縁ではいられないのです。
国語力とは、全学力の土台であり、現代社会をよりよく生きるための実践知です。 フィロソフィア国語教室は小さな一私塾にすぎませんが、在野における学問の場、教育の場として、子供たちにとり、社会にとり、本当に必要と思える国語力の育成に一貫して取り組み続けます。