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読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。

わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!

苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。

慣用句や四字熟語はもちろん、和歌・俳句から文学史まで。国語に関して知っておきたい知識を、わかりやすくまとめてあります。

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フィロソフィア国語教室

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授業の様子について

 講師の八柳です。

 いまこの塾には二十三名の生徒さんがいます。

 

 ちいさな規模なので、ひとりひとりに合わせたことをやっています。

 

 受験生さんとは過去問対策をしたり、小論文の練習をしたり。学校のテストがちかづけば、教科書やワークをさらったり、勉強の計画を立てたり。宿題の作文が書けなければ、のんびり話しながら、よい案のおとずれを待ったりもします。

 

 

 やりかたも、できるだけそのひとに合わせられるようこころがけています。

 

 たとえば、国文法が苦手でも、お城のことならなんでも知っているAくん。

 

 かれの場合、ふつうのプリントをうとうとこなすより、城郭検定のテキストでも眺めながら、このページに用言はいくつあるか、固有名詞はいくつあるか、数詞はいくつあるか……。

 

 小田原城の解説を、助動詞ぬきで書くことができるか。

 

 そういうことからはじめたほうが、よさそうな気がしました。

 

 解説文はみごとなしあがりで、わたしは小田原は、かまぼこづくりの場所なのであって、お城は添えものとおもっていましたが、認識をあらためました。

 

 

 

 ハリーポッターと野球観戦が大好きで、漢字と読解のきらいなBくん。

「漢字なんて要らないです」と激越に主張するので、ハリーポッターにでてくる呪文を、いくつか漢語であらわしてもらいました。

 

 明治初頭の知識人たちは、こういう奮闘を経て、「自由」や「社会」など、それまで母語になかった概念のかずかずを、西洋のことばから移しかえてくれたのです。

 そのために、どれだけの苦学が必要だったかは、たとえば『福翁自伝』という本などに、けっこうおもしろく書いてあります。

 

 エクスペクト・パトローナム。

「守護霊召喚」? 

「召喚守護霊」?

 そもそも「召喚」って? 

 

 こういうところから、熟語の成り立ちについて、理解をふかめてもらいます。

 

 

 読解のほうにかんしては、このあいだ、プロ野球の試合詳報を題材に、授業をさせてもらいました。インターネットで、ホークスの情報を検索してもらい、でてきた記事からひとつ、とりわけ印象深かった試合についてのものを、選りぬいてもらいました。

 

 わたしは、それを見せてもらうのですが、センター前ってどこなのか、ヤナギタってだれなのか、なにがなんだか、まったくわかりません。

 

 打率三割って高いのか低いのか。

 

「盗塁」っていったって、あの四角い重たげなゴツゴツとしたベースを、試合中ちょろちょろと運び去る石川五右衛門かルパン三世のような男の背中しかおもいうかびません。

 

 子どものころ、友だちの家で野球のゲームをしていて、三百キロとか四百キロとかの球を放りつづける投手がいたような気がするのですが、あれは、地球人ではなかったのだということに、Bくんに指摘されてはじめて、気がつきました。

 

 つまり、野球の記事にかんするかぎり、わたしは「読めない」人間なのです。

 

 とつぜん「読める」側の立場におかれたBくんは、サードもショートもピンとこない三十すぎの「先生」に呆れながら、それでも懇切に、一語一語、「フライっていうのは……」「チェンジアップっていうのは……」と、講釈していってくれます。

 

 わたしはぐずですが、いちおうこういう仕事をしているものなので、こうしてていねいにことばで説いてもらえれば、それなりに道理をわきまえることはできます。

 

 けれどもまだまだ、「読めていない」のです。

 かれを何度でも興奮させるこの記事の文面は、わたしには、たとえことばの意味ひとつひとつを把握しきったにせよ、たんたんとした事実のつらなりにしか見えていないのです。

 

「読める」人と、「読めない」人と。この差はいったい、なんなのでしょう。「読めている」って、どういうことを指すのでしょう。

 それについて考えてみてほしくって、わたしはBくんに、まったくのしろうとにもその試合の「熱さ」がつたわるよう、記事の書きなおしをお願いしてみました……。

 

 

 

 Cさん。「推し」がいます。それはゲームやアニメのキャラクターだったり、ユーチューバーだったりするようです。

 

 推しのことならいくらでも語れます。

 

 けれども、与えられたテーマでの作文となると、苦手意識があるようです。

 

「私と社会」で書けといわれたって、社会のことなんて知らなくって、「私」のことなんかわからなくって、中心に持ってくるべき問題は、なかなか見つかりそうにありません。

 

 こういうときは、とにかく話すにかぎります。

 

 彼女のばあい、書くことのハードルが上がりすぎているのです。

 ほんとうはたくさんのものごとを、深く、繊細にとらえているひとなのです。

 けれどもそれゆえに、「わたしにこんなことをいう資格はあるのか」「こうもいえるし、こうもいえるし……。こういう可能性もあれば、こういう可能性だってあるんじゃなかろうか」

 

 と、考えすぎてしまうのです。それで、なかなか一行目にたどりつけません。

 

 風通しが必要です。

 いったん「社会」も「私」も忘れて、話したいことを話してもらいます。

 

 すると、おもしろいものですが、「本筋」から逸れれば逸れるほど、「推し語り」にふければふけるほど、彼女の「私」というものが、ぼんやり見えてくるのです。

 

 わたしは、できるだけなにも言いたくありません。

「なるほど、あなたはこういう人間なのだね」と結論づければ、それが今度は書くものをしばることになるからです。

 

「私、もしかしたら、こういうところがあるかもしれないです」

 

 そんなふうに彼女自身がつたえてくれるところまで至ったら、わたしは、そこからつながる社会問題についてほのめかします。

 

 たとえば、善きにつけ悪しきにつけ、「純粋」なキャラクターばかりこれまで好きになってきたということであれば、「排外主義」などはどうだろう。

 社会の「純粋性」をたもとうという、人びとの欲望のようなものも関わっていそうだけれども……。

 

 

 

 

 もちろんこういうこころみが、いつもうまくいくはずもなく、空回りに終わったり、かえって混乱をもたらしてしまったりするようなこともないとはいえません。

 ここは宣伝用のブログですから、格好のいいことばかり書いてしまっているフシもあります。

 

 

 けれども大きな塾になじめないかた、みんなとおなじにやるのが苦手なかた、熱血先生の情熱指導をうとましく感じるかた、数値化の暴力にくるしんでいるかた、あわただしい時間をはなれて、ゆっくり本質的なことを考えてみたいかたにとっては、悪くない場所であるといえるのではないでしょうか。



投稿者: フィロソフィア国語教室投稿日時: 2024年11月2日 13時01分