読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!
苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。
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むかし、生徒のみなさんはご存知ないかもしれませんが、淀川長治さんという人がいました。
映画評論家で、『日曜洋画劇場』という番組の解説役を務めていらっしゃいました。
お話の締めくくりに、きまって「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」とおっしゃるので、「サヨナラおじさん」と親しまれていました。
このひとには、どこで読んだかわすれてしまいましたが、ある信条のようなものがありました。
それは、どんな映画も決してけなさない。なにかひとつはかならずよいところを見つける、というものです。
「あの女優の脚の組みかたがいい」とか、「あそこのせりふ回しがおもしろい」とか……。
わたしが、みなさんの作品を読ませてもらうにあたって、大切にしているのもこのことです。よいところを見つけます。なおしてみてもいいのかも? というところに関しては、そっと、朱ペンで原稿に書き添えてお返ししています。
よいところ、とはどんなところでしょう?
それは、そのひとの作品だけがもつ、独特の味わいです。
「いかにもこのひとらしいなあ」という、文章や、構成、目のつけどころなどの、「お手本」からのズレのことです。
技術や巧みさによって醸せるものでなく、むしろ、そういったものをすべて手放した先にあらわれる、そのひとだけの声や身体の躍動の痕跡です。
今期の作文教室の生徒さんがたの作風について、ちょっとここでふれさせてください。
Sくん。
このひとは、入塾以来、ほぼずっとひとつのながい物語を書きつづけてくれています。
ゲーム「マインクラフト」に材をとった、魅力的な登場人物たちはクラスのメンバーにもすっかりおなじみですね。
みなさん「マインクラフト」ってご存知ですか。
キャラクターはみんな四角い顔をしていますね。
だからSくんは、ある場面で、「目をまるくする」という慣用句を、「目を四角にする」ともじってくれました。
こういう愉快なことば遊びは随所にみられます。かれの文体の特徴ですね。
時おり、トリックスター的なキャラクターが物語の筋に関わりなく乱入し、ナンセンス、かつユーモラスな饒舌をくり広げてシリアスな展開をぶち壊したりもします。
いきなり漫才がはじまったり、メタ的な視点がはいりこんできたり……。
毎回新しい書きかたを実験してくれています。すばらしいですね。
A.Sくん。
最古参のメンバーで、クラス随一の達者者でしょう。
作品は、寓話からSFからミステリーから青春小説ふうのものから……。とにかく多岐にわたります。
そして毎回、さまざまな文体を使いわけてくれるのですが、それでもご本人特有のユルさやのんびりした感じは残りつづけていて、それが実にいい味わいをうんでいます。
「ああ、Aくんの作品だなあ」という感じがするんですね。
最初期の作品は怪獣同士のバトルだったり、まぬけな貴族の失敗談だったりして、鑑賞会ではクラス中爆笑させていたものでしたが、このごろの作品ではある種の深まりというか、一筋縄ではいかないような、思想性の片鱗がうかがわれるようになってきました。
文章もグッとひきしまってきましたね。
「こんなことば、よく知ってるねえ」というむずかしい語彙も多用されるようになってきました。
それでいて、あのくつろいだユーモアの感覚は依然作品全体にただよっているのですから、ご本人もあまりカタくなりすぎないよう、深刻な雰囲気をつくりだしすぎないよう、かなり気を配ってくれているのでしょう。
お見事です。
A.Kくん。
彼の持ち味はなんといっても正確さへのこだわりです。
旅行や休日の過ごしかたなど、事実にもとづいた作文を書いてくれることが多いのですが、何月何日の何時になにをして……。これこれの映画を観て……。どこどこの温泉へ行って……。
こういったことを、きちっきちっと書きこんでくれます。
事実をたんたんと、つらねていくスタイルなんですね。それが小気味よいリズムをうんでいます。
そこに時おり、たとえば『移動教室』の肝試しのくだりなど、「叫びながら全力で館内を五周した」こういう、きわめていきいきとした描写が飛びこんでくる。
そのギャップに、ドッとクラスのみんなも沸きます。
秋田へ旅行したときのことを書いてくれた作品などは、お見事でした。
出発前の空港のくだりだけで、八百字ちかく書いてしまったのです。
「長すぎたかな」と、かれは心配していました。
いいんです。それでいいんです。それこそが、いいんです。
構成がどうの、配分がどうのということは、すくなくとも第一稿を書くときは、まったく重要でないことなんです。
一行ですませることだってできなくはないただの空港でのたいくつな待ち時間に、それだけの言語的な現実を見つけることのできた、書く人としてのあなたはすばらしいんです。
最初は二百文字埋めるのも嫌がっていたのに、いまではめきめき腕を上げ、四枚、五枚は当たり前に書いてくれるようになりました。クラスいちばんの旅行記の名手です。
Mくん。
とにかく器用な物語作家です。
宗田理さんの「ぼくら」シリーズを愛読していて、そのオマージュ作品を書きつづけてくれているのですが、こちらがなにかリクエストをしてみると、それをすぐさま反映してくれるんです。
たとえば、「この森田っていうキャラクター、ちょっと影が薄いんじゃない?」といったら、すぐにその森田を主役としたお話をつくってくれるんです。
「さとうっていうひと、どんな性格なの?」こう聞いてみると、すぐにさとうの人がらが、わかりやすいだけでなく、おもしろく読者に伝わるような描写をチャッとさしこんでくれるんです(さとうの話はとっても長くて、みんな眠ってしまいます)。
文体にかんしてもまちがいなく、固有の魅力をもっています。熟語や慣用句の多用、といった知的で品のよいところと、オノマトペの乱舞のような、元気いっぱいなところとが、うまーく調和しているんです。
「Mくんの声がする文章だなあ……」としみじみします。
物語の舞台も文化祭、体育祭や、時たま時事的な問題についてもかなり大胆なあつかわれかたをしていたり、読んでいるほうを飽きさせないくふうが随所にされているんですね。
お金を支払う場面で、主要キャラクターのひとり・陽子が、「えー、新札使うのやだ」。こういうせりふをサラッといれてくるところ、ほんとうに巧みですねえ。このたったひとことから、陽子の性格や生活が、いろいろにイメージされますもんね。これからの作品も楽しみです。
Nくん。
最近入塾してくれました。それできのう、はじめての鑑賞会だったのですが、まあー、舌をまきました。
なんという、飄逸とした文章!
お姉さんたちといっしょに、ある作家にまつわる名所めぐりをしたときのことを書いてくれたのですが、語りがとにかくおもしろいんですね。
ご本人は、海外の作家の、ある有名なファンタジー小説を愛読していて、その影響もうけているようなのですが、それだけにはおさまらない、さらさらと、肩のちからの抜けたユーモアが全編にちりばめられています。
新幹線でスマホゲームをしていたとか、どこどこのどういうホテルに泊まったとか、恐竜博物館に行かせてもらえなかったとか、あるいは、バス停まで歩くのに骨折の治りきらない足が痛かったとか……。
一見なんてことのないエピソードの数々も、Nくんの筆にかかると思わず笑ってしまうような小話に変わります。
「これ、なんの話?」「この一文、要る?」っていうところが、ひとつもないんですね。
旨味が凝縮されているんです。
どのくだりもかならずオチがついていて、どの文にもかならずひとつ、「くすり」としてしまうようなワードのふくまれる、かれのセンスが光ります。
最後、台風で新幹線がとまってしまった話など、じっさいその時はかなりしんどかったはずなのに、ここもまたユーモアのちからで「くすり」をもたらすエピソードに変えてくれました。
書くことで、ある現実のあらたな側面を見いだしてくれたのです。すばらしい知恵です。わたしなどなにごとも深刻に考えすぎてしまうところがあるので、ぜひ見習いたいとおもいます。
ちょっとのつもりが、だいぶ語ってしまいました。基本メンバーは、現在この五名です。
かれらの書きぶりを拝見していると、「おっ、来たな」と思うことが多々あります。
書いたものが、ある一定の分量に達したとき、なお書きつづけようとしていくと、なんというか、離陸のようなものが起こります。
書く行為が、書きたいことを追い越すときがおとずれるのです。このときは、もう書き手のあたまには、意図や、たくらみのようなものはありません。あったとして、それはあまり重視の対象にはなっていません。
頭でことばをどうにか捻りだすのでなく、書いたことばが、つぎのことばをひとりでに呼んでくるような状態がおとずれるのです。
ひとたびこうなると、書くことはもうほとんど自動的な行為となります。
書いたそばから、つぎの一文がうかんでくるのです。まるで、足もとだけがつかの間凍る湖の上を走っていくようなものです。
大丈夫です。つじつまは、ひとりでに合っていきます(Sくん、たとえば今回の作品のバトルシーンが、そうでしたね)。
書くわれわれよりはるかに多くを、はるかに深く、ことばは考えてくれているようなのです。
よけいな迷いはすて、いまはとにかく走りつづけてください。書きつづけてください。
わたしはそれを言語や非言語で、おつたえするためにそこにいます。
わるい文章、そういうものがもしあるとすれば、それはつぎの日、読みかえしてみて顔が真っ赤になってしまうような文章です。鑑賞会から、逃げだしたくなってしまうような文章です。
ギリシアの神話に、こんなお話があります。
むかしゼウスという神さまが、じぶんたち神と人間とを区別しようと考えました。
プロメテウスという名前の巨人が、「それはおれにやらせてくれ」とゼウスにおねがいし、了承を得ました。
プロメテウスは、大きな牛をころし、二つのかたまりにわけました。
ひとつは肉と内臓を、食べられない皮でくるんだものでした。
もうひとつはごつごつの骨のまわりを、おいしそうな脂でコーティングしたものでした。
それを用意したプロメテウスはゼウスを呼んで、二つのかたまりのうち、どちらかをえらぶよう求めました。
プロメテウスの考えはこうでした。
おれは、人間たちによいことをしてやろう。ゼウスは見かけにだまされて、きっとうまそうな脂のほうをえらぶだろう。けれどもほんとうは、それは食べられない骨なのだ。
そして人間たちは、肉と内臓を手にいれる。それはおいしくて、栄養たっぷりなのだ。
ゼウスはこの、プロメテウスのたくらみをほんとうは見抜いていました。
けれどもあえてだまされたふりをして、脂に装われた骨のほうをえらびました。
そのかわり、人間たちから火を取りあげました。
このとき以来、人間は、えらびとった肉や内臓のように、死ねばすぐくさって消えてしまうようなさだめとともに、生きることとなったのです。
みなさん、文章において、骨とは、脂とは、肉や内臓とは、いったいなんだとおもいますか。
くさる文章と、くさらない文章とのちがいはなんでしょう。
よい作品をしあげるための、いちばんの方法は「書きなおし」です。
できれば二度ほど、書きなおせるといいでしょう。「修正」するのでなく、「改造」するのだとでも考えてみてください。
仮にわたしたちの書いたものが翌朝にはもうくさってしまっていたとしても、われわれは、それをふたたびよみがえらせることができます。
わるくなった肉のかけらを、注意ぶかく取りのぞいてみてください。
わたしもあとでじぶんの書いたものをなにかのきっかけに読みかえしてみることがあったりすると、「どうしてここで黙れなかったのだろう」と感じることがよくあります。
つけ足すことよりも、けずることを意識してみてください。