読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
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講師の八柳です。
わたしはとにかくなにかするたびぐずだのろまだとまわりをやきもきさせずにいられない子どもでした。
小六のとき、卒業生入場の練習で、右手と左足、左手と右足をピシッ、ピシッと狂いなく連動させながら胸を張って見ばえよく行進しなければいけないのに、わたしだけどうしても右手と右足、左手と左足が同時にうごいてしまうばかりか、数歩進むうち背中もまるで湿気にやられたボール紙のようにくしゅんと丸まってきて、それが何度もくり返されるので、二日酔いで学校にくることもざらだった監督役の担任教師をひどくいらだたせたものでした。
わたしは全卒業生の目の前で何度もその場を往復させられました。
すると、いったんはできるようになるのです。
しかしふたたび列に加わると、なぜかまたおなじような醜態をさらしてしまうのです。
ふざけているわけでもなかったはずですが、教師からすればおちょくっているように見えたのでしょう。わたしは個室に呼ばれ、熱血指導をたまわりました。
「やくざものになる!」
それが教師の見立てでした。
また、これは小学校にはいりたてのころだったかもしれませんが、「おえかき」のことはよくおぼえています。
あるとき、「春」をテーマにした絵をかきなさいという課題がだされたのでした。
わたしは、色をぬるのが好きでした。画用紙にかがみこんで、手をうごかすのが好きでした。わたしにとって、絵を描くことはしあがりの問題でなく、一種の運動競技のようなものでした。わたしは、クレヨンが好きで、まあるいかたちに惹かれていて、そして、目をつけたのが黒色だったのはおそらくほんとうにたまたまでした。
後日、タンポポ、チョウ、ピクニック、といったかわいらしい春の風物にならんで掲示されたなぞの暗黒球体を見て、参観におとずれた母は卒倒寸前でした。
家に帰ったわたしは母の厳重な監視下で、泣きながら「春のようせいさんのお城」を描かされました。
こういうことが毎日のようにあったので、中学にあがるころにはもうすっかりくたびれて、人生に対してどこか投げやりな気持ちになっていました。どうせなにをやったってうまくいくはずはないとさめた傍観者のような態度をとっていました。
父親は、わたしにまっとうなビジネスマンとしての道を歩んでほしがっていたようですが、そのためには成績があまりに壊滅的でした。
「てめえ、あたま、わるいんだから、やれ!」
ぼこぼこ怒鳴りつけられながら、毎晩数学のドリルを解かされましたが、わたしはそのうちに、オロチ退治でもありませんが、焼酎のまわりはじめた父の目をぬすみ、解答冊子を丸写しにする、という、きわめてプリミティブな抵抗戦略をとるようになりました。
急に正解を連発しはじめた、しかし試験は変わらず赤点ばかりのわたしに対し、父はとうとう、なんにも言わなくなりました。
冊子の答えをうつすとき、ほどほどに誤答もまじえてほんとうらしさを演出する、それだけのずるがしこさもはたらかない、ただずるいだけのくそがきを息子にもった現実が情けなく、受け容れがたかったのでしょう。わたしはいまでは父とは疎遠なのですが、この件にかんしてはこころからかれに同情しています。
わたしは読書をたくさんし、空想にたくさんふけりました。そして、理数が0点でもはいれる公立高校にすすみました。
そこでの生活は、わるいことばかりでもありませんでしたが、「なんだかわからんなあ」ということもいろいろありました。
あるときすぐそばの河川敷で、一年生と三年生とが決闘をおこなうという噂がながれてきました。野球部の練習の最中椅子の角でなぐられた仲間のしかえしをするために、下級生のうちとりわけ威勢のいい気性の人びとが、メリケンサックなどをつけ先輩を呼びだしにいったというのです。
おおぜいの野次馬たちが廊下を走っていきました。
そのときさっさとお家に帰ってしまったわたしは、後日、図書室で本を読んでいたらふいに胸ぐらをつかまれました。そして郷土史の棚のかげに連れこまれました。
「調子こいてんじゃねえ!」
背のたかいゴールキーパーの男はいちおう司書さんに聞こえないくらいの声量で威嚇してきました。
そこでわたしは、とくに他意もなく引っ込み思案にぽやぽやしているだけのわたしの態度を、何人かのヤンチャものたちが「あいつなまら気取ってるべや」「なんますかしてるべや」などと誤認して、こころよからず思っているのをはじめて知りました。
わたしは、おたおたしてしまいました。
そのゴールキーパーの男には、個人的なしたしみを感じていました。
わたしはかれがお弁当の時間、シュウマイや、唐揚げや卵焼きといった大盛りのおかずを差しおいて、いつも、お魚のかたちをしたプラスチックの容器から一滴二滴白飯のうえに醤油をたらし、そのままはふはふかっこむような食べかたをしているのを知っていました。
醤油たらしご飯、それは、わたしにとって小学生のころ行儀がわるいからやめなさいと母に規制されて以来ひさしく味わえていなかった禁断の美味でした。
それでわたしは、ある日の昼食時、その白飯の食べかたをするあの男をやや遠巻きに発見し、ああ、ここにも同志がいたのだと、異国で同郷人を見かけたときのように、ほんのり活気づいたような気持ちになっていたのです。
わたしはその旨を、いまにも殴りかかろうとするかれに告げました。
「醤油たらしご飯、おいしいよね」
かれの目は、白黒しました。
わたしは前にもすこし書いたかもしれませんが高校二年の終わりくらいにあこがれの先生が、都の西北にあるという有名な大学で授業をもつことを知り、そこで小説の読みかたや、書きかたまでもじきじきに教わることができるという情報を手にし、それではじめて、人生でほんとうにはじめて、本格的な勉強というものを開始しました。
上京をする、それもだれもが知っているような大学に通うために東京でひとり暮らしをするなどという発想は、それまでのわたしにはまったくありませんでした。
ただなんとなく地元のまあ数学はぜったいにむりなので三教科で受けられる私立大学にでもなんとなく入って、なんとなくそこを出て、なんとなく就職をしてなんとなく生きていくのだろうと、なんとなくおもっていました。
どうなったっていいとおもっていました。なにをやったってうまくいった試しがありませんし、そのことでいつも叱られてばかりだったからです。
そもそもわたしは、生まれてくるときでさえ、へその緒を首に巻きつかせなければ産道を通りぬけても来られなかったのでした。
しくじりつづきの人生で、日々は、不可解な試練のつらなりでした。他人はみな聞く耳もたない異郷の門番でした。
そんなわたしが、ひとたび有名大学に受かってみると、たちまちインテリあつかいをうけるのです。進学校ではない母校では、横断幕ものの騒ぎでした。あの高校からわたしの大学へ現役ですすんだものは、おそらく、開校以来わたしが最初でした。
とりわけわたしの無惨に荒廃した理系半球しか観測したことのなかった物理や数学の教師らにしてみれば、これはまさしく驚天動地の戦果であったようでした。
わたしは、ここがほんとうに厄介なところなのですが、ひとに見直される快感を知りました。それまでじぶんをしっしとぞんざいに追い払っていた手のひらが、大学名を告げるなり、ひっくり返って卑しく擦りあわされるさまをニターッと観察するのが、気持ちよくってしかたありませんでした。
親戚たちのあいだでは、あらたな解釈学が成立しました。
それまでは「ぼんやり」「からっぽあたま」の象徴だと見なされていたわたしの無表情は、「深謀遠慮」「哲学的な思索」のあらわれとして解されるようになったのです。
わたしは、味を占めました。
前に引いた『貝の火』という物語で、うつくしい宝玉を手にしたとたん威張りはじめるあの仔兎のホモイの気持ちが、わたしにはよくわかります。
わたしは長期の休みのたび母校をおとずれるようになりました。英雄として、凱旋するのが至福だったからです。
かつての同級生らと夜の公園でしゃべっているときに、警官が職務質問しにくると「しめたものだ」とおもいました。身分を証しだてるものとして、学生証を示すことのできるのが誇らしかったからです。
警官は、「おっ」と言いました。
友だちはみな、「おおーっ」と囃しました。
それがまた、わたしをぞくぞくさせました。
いっぽうで、わたしは焦りはじめてもいました。
当然のことですが、大学では、わたしよりはるかに優秀な頭脳、潤沢な文化資本にめぐまれた人びとが、格好のよいカタカナのことばなどをいっぱいに散りばめて、フーコーがどうの、ドゥルーズがどうのときわめてあたまのよい御談義に花をさかせていたからです。
わたしは、その低質なまねごとに腐心しはじめました。
図書館にいって、じぶん自身の問題意識がなんなのかもよく考えてみないまま片っぱしから思想の書物を読みまくり、いっぱしに、カントがどうの、ヘーゲルがどうのなどと衒学的なもの言いを弄するようになりました。
フロイト全集も読みきって、議論の相手が、なにかわたしに都合のわるい意見をのべるたび、
「ああ、はいはい、『投影』ね……」
などと、齧りたての心理学のことばを動員し、相手の正論をなかったことにしてしまうのでした(これこそ未熟な防衛機制というものでしょうが)。
なぜなら、「インテリ」に列せられてはじめてひとさまの承認を得ることのできるようになったわたしは、だれよりも「あたまのよい」存在でなければならなかったからです。
わたしはもういちど、あのばかなじぶん、なにをやっても人びとの否定や嘲笑や罵倒ばかりを誘いだしてきた学歴なしのみじめなじぶんに逆もどりすることだけは、死んでも避けなければならないとおもっていました。
わたしにとって、その時期に身につけた思想はどれも、本心ではつねに離反を画策しているよそよそしい護衛部隊のようなものでした。
本音を話せばかならず笑われるものと信じきっていたので、なにを言うにもニーチェがどうの、ハイデガーがどうのと、いちいち箔づけをしなければならないありさまでした。
わたしのことばは、死んでいました。
わたしはそれでかまわないとすら思っていました。みんな、わたしにことばを求める人たちは、ばかなわたしの思いつきより、わたしの知っている思想史上の偉人の箴言などを聞きたいのだと思いこんでいたからです。わたし自身でなく、ひとりの「インテリ」の金言こそが求められているのだと感じていたからです。
学びにとぼしい時期でした。いろいろな書物にふれてみたって、こちらの視野がせまくなっているのだから当然です。
あるときわたしは友だちが、みんなで居酒屋に行っているあいだ、ひとり家で『意味の論理学』というむずかしい本を血眼に熟読していました。
それで、さっぱりわからないままのわたしを差しおいて、翌朝、顔のむくんだ友だちのIくんがその本をあつかった討論で最大級の讃辞をおくられていたりすると、ぽろぽろ泣きたくなるのです。
「なんだ、こいつ! きのうさくら水産に行っていたくせに……!」
帰宅して、ベッドにもぐりこむと、はっと思いあたるのです。そうだ、あいつの親、たしか大学の先生じゃん!
それで二重らせんの残酷さに思いを馳せはじめるのです。理科なんか、小五くらいで投げだしたくせに。
親に電話をかけたくなるのです。なぜあんたらは、そろいもそろって高卒なのかとねちねち責めたくなるのです。いまからでも遅くないから医者になれ、大学教授になれと。
雷にうたれて数学の天才になったという男の話を読み、嵐の夜、下井草一帯をうろつきまわったこともありました。
ずいぶん長くなってしまいました。
最後にこれだけ言わせてください。
若いみじめなわたしにとって、学歴は、それを振りかざすことではじめて人としての発言をゆるされる、仰々しい銃器のようなものでした。
エリートとは、いつでもだれかに話を聴いてもらえるうらやましいひとたちのことでした。
知識とは、真実とは、たとえ価値のないわたしの口からでたものだとしても、熱心に耳を傾けてもらえるはずのなにかのことでした。
あるひとが、エリートの知らない「裏の真実」のようなものに目の色を変え、のめり込んでいくとしたら、それはなぜなのでしょう。
わたしはこういうことばを思いだします。
「一人の人間が一つの真実を自分のものにして、これこそわが真実といって、それにもとづいて自分の人生を生きようとするとたんに、彼はグロテスクな人間に化してしまい、彼が抱きしめる真実も虚偽になってしまう」(シャーウッド・アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ』小島信夫・浜本武雄訳)