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興味について

 講師の八柳です。

 いまでも売られているのかわかりませんが、わたしが子どものころ、スイカバーというアイスが流行りはじめていました。

 

 ほんとうに、切りわけたスイカさながらのかたちをしていて、スイカ味、ともなんとも言いがたい赤い身の部分と、ソーダ味のする緑色の皮の部分、そして、ちいさないくつものチョコレートの種から成る、愉快な棒アイスでした。

 

 この商品の出はじめのころ、わたしは札幌市内の幼稚園にかよっていました。

 園長は常時つま弾いているアコースティックギターとチャーミングなちょび髭を特徴としたふくらかな中年男性で、風変りな経歴の持ちぬしだったらしく、掲げた教育方針はおそらく他の園にくらべていくぶん独特なものでした。

 

 たとえばわたしらは、大人たちを「先生」と呼ぶのは禁じられていました。親しみを込め、呼び棄てにするならわしでした。ユミ、とかタカハシ、とか。

 

 わたしはユミとファミコンカセットの貸し借りをしたこともありますし、リビングに、でんとバイクの置いてあるタカハシの自宅にまねかれたこともありました。

 他にもいろいろ、いまでは物議のたねともなりかねないような距離の近さがありました。

 

 その園のたしか年長組に属していたあるとき、細かないきさつはもうわすれてしまいましたが、ミヤマという、オリンピックへの出場経験もあるとまことしやかにささやかれていた先生にともなわれ、わたしたちはどこかへ外出していました。

 

 たぶん夏の日で、帰り道にわたしたちはアイスをひとつずつ買ってもらえることになりました。どれでもいいから好きなものをえらびなさいとのことでした。

 

 わたしはそのとき、なぜだかすっかり苺の気分になっていたので、おぼろげな記憶ですが、「いちごのしずく」とかいう名前の、紅いろの棒アイスをえらびました。

 ところが、他の園児たち全員の手には、示し合わせたかのようにスイカバーがあったのです!

 

 あっ、とわたしは総毛だちました。

 ぎらぎらした、アスファルトの傾斜のうえでした。

 

 わたしはそれまでにも、大人たちに気を揉ませがちな園児でした。

 

 キャンプファイヤーから離脱したわたしを、たくさんの懐中電灯が追ったこともありました。

 隠し芸大会では、控え室からの消失芸を披露して会場をどよめかせました。

 

 そういったこれまでのさまざまなことへの馴染みがたさが、それこそまるで手にしたアイスの棒のような、一本の因果の軸でつらぬかれたようにわたしには感じられました。

 すべてが符合したのです。

 

 世のなかには、スイカバー人間と、そうはなれないはぐれものとがいる。これが、五歳のわたしの頭を占めた、人生ではじめての人生論でした。

 

 わたしは、これからのながい人生が、このスイカバー人間たちとの絶えざる闘争になるだろうことを予感していました。

 そして、そのころはまだ本州に上陸したことさえなかったのですが、この国のどこかに、きっと息をひそめているにちがいない「いちごのしずく」人間との邂逅、そして、神聖な連帯を、ひっそりと切望していました。

 

 

 

 このあいだ、高校生の生徒さんにお話をうかがってギョッとしました。

 いまの世の中には、なんでも一定時間おきに「写真を撮れ」「それを共有せよ」と強要してくる、なんというのでしょう、サービスのようなものが存在しているらしいですね(わたしの理解がちがっていたらごめんなさい)。

 その「強要」というのが、時をえらばず、啓示や召命のようにおとずれるものらしく、ある種の狂熱に駆られたひとびとは授業中でも敬虔なまでにパシャパシャやりだすので、問題になっているらしいのです。

 

 ものすごい時代ですね。

 

 Twitter、いまは「X」というのでしたか、あるいはfacebook、インスタグラム、Tiktok、そういうものについては、わたしも、名前くらいは認知していますが……。

 

「田舎の女子高生の幸福度は、低下していると思います」

 

 その生徒さんはおっしゃっていました。

 

「都会の女子高生が、新宿や、渋谷のようなところへ出かけている様子を、ずっと見せつけられねばならないわけですから」

 

 また、中学生の生徒さんがたなどは、課題のワークに取り組む際、範囲が不明瞭なときなどは「グループライン」に「範囲どこまで?」などと投稿すると、そこに属する数十名の同級生のうち、だれかしらは即座に情報を提供してくれるのです。

 

 そういう様子を見ていると、わたしなどは、つくづく、いまの時代に生まれなくてよかったものだと思ってしまいます。

 

 わたしの学生時代は、もちろん、こういった相互監視網の発達する以前のことでした。

 

 いまでは小学生の生徒さんがたも流暢にデジタルのことばをしゃべりこなしていらっしゃいますが、インターネットというものは、わたしがまさにかれらと同い年くらいのころ、一部の家庭に流布しはじめた秘密の技術で、わたしは友だちに「チャット」の画面などを見せてもらうと、このモニターの向こうがわに、顔も名前も年齢もわからないどこかの人間が、たしかに意思をもって実在しているということが、どうしても信じがたく感じられたものでした。

 

 いま、われわれは、相当にややこしい世界を生きているようですね。

 

 ひとさまにじぶんの私事を、それも適度に虚構をまぶされた私事を知らしめたいという願望が、わたしにもまったく欠けているわけではありません。

 なぜなら、こうしてブログに文章を載せつづけているのも、やはり先史時代の人びとが、洞窟の深部にバイソンやマンモスをえがきつづけたのとは、かなり性質の異なるおこないであるといえるだろうからです。

 

 けれどもわたしは、飽きたらすぱっとやめるでしょう。

 それにわたしは、やみくもに数字を稼ぎたいとはおもいません。だれかに褒められたいともおもいません。

 数字や承認の世界は本質的に、スイカバー人間のつかさどる世界だからです。わたしはそこに、近寄りたくはありません。

 

 はじめから背を向けたのでもありません。いちど混じりこもうとして、挫折したのです。

 その挫折を経てはじめて、スイカバーのみならずチョコモナカもガリガリ君もパピコもヨーロピアンシュガーコーンもぎっしり詰まった棚のなかから、明晰判明なこころのありようで「いちごのしずく」を選びとれるようになったのです。

 

 そして、ひとくちに「スイカバー人間」といって遠ざけていた人びとも、時によってはハーゲンダッツ人間やMow人間、あずきシャーベット人間へと変化しうることを理解できたのです。

 

 人間は、いつでもおなじアイスばかり選んではいられません。

 わたし自身にしてからがそうです。

 

 高二のときのある日の休み時間、陰口大会をもよおしていたクラスメイトのひとりから、ふいに真顔で「てかさ、おまえさっきから調子あわせて笑ってるけどさ、それ、うちらスイカバー人間より、よっぽどスイカバーっぽくね?」こう詰問されたとしたならば、わたしはむしろ、やすらかな誇りすら感じたことでしょう。

 ちょうどアメリカ人の高官に英語力をほめられ、「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ」と返した白洲次郎のような心境です。

 

 永続不変のスイカバー人間がいるのでなく、人間を、つかの間スイカバー化してしまうなにかがあるのです。

 

 

 

 このあいだ、生徒さんがたはどれほどご存知かはわかりませんが、『8時だよ! 全員集合!』という往年の有名なコント番組の「傑作選」が放映されていました。

 ゲストとして、たくさんの、今時の親子が招かれていました。みんな四十年以上も前の、苔むしたお笑いを見せられて、世代の垣根なく、暴風のなかのすすきのようにげらげらとのけぞって腹を抱えているのです。

 

「令和にも通用する、ドリフのお笑い!」

 

 わたしはその光景にうすら寒さをおぼえました。

 もともとそうぞうしいもの、乱暴なものの大きらいなわたしは、当然の帰結としてドリフなどむかむかしてたまらないのですが、そのときわたしがおぼえていたのは、もっと隠微な嫌悪感であるようでした。

 

 わたしは、「いやー、今見てもおもしろいですねえ」などとそら涙をぬぐっているようにも見える男性芸能人をぼんやりながめながら、このひとは、いまのわたしとおなじ環境でこの痛々しいドタバタ騒ぎを見せつけられても、本心から、同様の感想をのべることができるのだろうかと疑問をいだきました。

 

 その疑問は、すぐにわたし自身へと跳ね返ってきました。

 

 わたしは、あの劇場ふうのセットに座らされ、他の大勢の観客のただなか、進行役の芸人にマイクを差しむけられたとしても、はたして、「いちごのしずく」の姿勢をつらぬくことができるのだろうか?

 どろんと小器用に、スイカバー人間へと変貌してしまうのではなかろうか?

 

 わたしはそういうじぶんをもうれつに嫌悪します。

 

 ですから、スイカバー製造工場的な空間にはできるだけちかづかないようにしています。

 その版図は、年々拡大しているようにもおもいます。

 網野義彦の「無縁の原理」ではありませんが、もっとすなおに、無頓着に、なんの飾り気もなく、「いちごのしずく」人間でいることのできる場所はないものでしょうか。

 先の高校生さんの話では、ネット上では、そのような世間での居心地のわるさを吐露することじたいひとつの「アピール」と見なされてしまうのだそうです。

 

 

 

 わたしは、オリンピックで日本がいくつメダルを獲得しようが、メジャーリーガーが何本ホームランを打とうが、若年の棋士が何冠を達成しようが、日本人俳優が史上はじめてのナントカ賞の快挙だろうが……。

 

 どうしても、めでたいともうれしいとも感じることができません。

 わたしの人生には、なんの関係もないからです。 

 こういうことは、どうして世間ではあまり言ってはいけないことだとされているのでしょう。

 

 わたしはけっして、万事に無関心なわけではありません。つめたい人間でもないつもりです。

 けれどもわたしが、興味のないことに「興味がない」と表明すると、多くの場所で、空気は凍ります。

 いまげんにここにいるひとと根本的にちがう言語でものを考えていることのわかる瞬間は、くるおしく、さみしいものです。

 けれどもわたしはたとえばプルーストやフローベールに興味をもってくれとは頼みません。源氏物語を読んでくれとも望みません。

 

 興味のなさは興味のなさのまま、大切にしていていいのです。

 そのことに罪悪感をおぼえたり、ひょっとしてわたし機械人間なんじゃなかろうかと疑いはじめたりしなくっていいのです。

 あなたのえらんだアイスを大事にしてください。

 

 

 

 

 映画『ブレードランナー』で、主人公をおいつめたアンドロイドの男の、最期のことばが印象にのこっています。

 

 

「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。

オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。

タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム。

そんな思い出も、時間と共にやがて消える。

雨の中の涙のように。

死ぬ時が来た。」

 

 

 なにもかも、雨の中の涙と思ってみてはどうでしょうか?

 それはけっして、儚いばかりのものではないはずです。



投稿者: フィロソフィア国語教室投稿日時: 2024年9月20日 13時59分