読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
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講師の八柳です。
勉強を成功させる要素のひとつとして、もちろんやる気が挙げられます。やる気があればたいがいのことはどうにかしていけるでしょう。塾に通う必要すらないかもしれません。しかしやる気というのはなかなか湧いてこないものなんですね(すくなくともわたしの場合は)。湧いてきたとして長つづきするともかぎらないものなんです。ちょっとしたきっかけで、呆気なく消滅してしまうかもしれません。儚いものなんです。こういうものばかりを当てにしていては、なかなかうまくはいかないんですね。
やる気がでないからといってむりやり奮起したり、自責に没頭したりするのはよくありません。それはきっとあなたなりの理由があってそうなっているんでしょう。その理由とやらも、解明可能なものであるとはかぎりません。むやみと突きつめず、スマホやタブレットもいったん手放して、できるだけぼーっとしてみてください。浮かんでくる考えや感情を、そのまま観察してみてください。やる気のなさの研究です。これもりっぱな勉強でしょう。
話を聴いてくれるひとがそばにいるのなら、そのひとに相談してみるのもいいでしょう。「ぼくはどうしても宿題をやる気になれないんだが、ぼくってなまけものなんでしょうか?」
しかしこれは聴く側がとてもむずかしいんですね。巷にあふれる「聴く」ことについての本は、「なるほどなあ」と思うものもありますが、「これはどうだろう」と首を傾げてしまうようなものも多くあります。
「傾聴」ってなんなんでしょうね。
思い通りの方向に相手を誘導するためのテクニックなんでしょうか?
部下を動かす……。生徒をやる気にさせる……。
そんなうたい文句には、どうもわたしは寒気を感じてしまうんですね。
聴くことは、もっとぎりぎりのいとなみであるような気がします。
この場合でいうと、話す側に「宿題やろう」という気持ちが生じる可能性とおなじくらい、聴く側に「宿題ってやらなくていいんじゃ……?」という世界観の大変革がおこる可能性もあるかもしれないと思うんです。
その危うさを受け容れたうえでなければ、聴くだけの状態にとどまることは困難だと思うんですね。
つい腫れものあつかい的な全肯定に傾いてしまったり、批判の牙をのぞかせてしまったりすると思うんです。
それなしにただ聴くことはほんとうにむずかしいことなんですね。「勉強」において理想的なのは、この姿勢をもって教師や参考書と関わりをもつことなんです。しかし、自分の話をじゅうぶん聴いてもらってもいない人にとって、他人の教えを一方的に聴かされつづけることほど苦痛なことはないですからね。
やる気がでないし、テストの点も低い。宿題もだせないし、叱られっぱなしだけど、とくに不安は感じていない。自己嫌悪とかもべつにない。毎日たのしく生きている。
すこしのためらいもなくそう断言できるそんなひとが、もしほんとうにいるならばおそらくわたしが教えられることはほとんどありません。
わたしが教えを乞いたいくらいです。
あなたは、すばらしいものをもっています。
あなたを言祝ぎたい気持ちでいっぱいです。
どうしたらあなたのように闊達に人生をわたっていけますか。わたしはほんとうは、あなたのように生きたかったんです。あなたのように世界に存在したかったんです。
「いやいや今は子どもだからさ」
と、ある人はいうかもしれません。
「現実が見えてないだけなんだよ。勉強しなけりゃ、将来きっと苦労するよ」
「勉強くらいちゃんとしておくべきだよ」
どうしてひとは、他人の楽天性に接するや、ちくりとイチャモンをつけたくなってしまうのでしょうか。
わたしの実感では、「〇〇しなければ」「〇〇すべきだ」ということばには、たとえ〇〇の首尾よく完璧になせた場合であっても、人生を壊死させるものが多量に含有されています。
わたしのまわりの大人はみんなこの種のことばの尊大な使い手たちでした。
かれらがおろかだったのではありません。おろかさが、かれらを占領したのです。
不安に征服されたのです。
狭義の勉強で、おろかさを克服することはできません。おろかさは何度でもおとずれます。それは人間の条件です。ですからせめてじぶんがおろかになっているとき(それはわるいことばかりとはかぎりません)、みなさんは、それに気づける大人になってください。そしてかろやかに苦しみを笑いとばしていってください。
ほんとうに、不安のきっかけはどうしてこんなに遍在しているのでしょう。
生徒さんがたと話していると、「頭がよい」「わるい」ということばが飛びだしてくることが多いんですね。どうやら成績のよしあしをそう表現しているらしいんです。おそろしいことですね。復習をこばむ生徒さんがよくいらっしゃいますが、それはだらけているのでなく、意志が薄弱なのでもなく、ある種の恐怖のせいではないですか。
「じぶんは、思っていたほど優秀な頭脳の持ちぬしではないかもしれない」。
こういう疑念は人間をかぎりない不安に突きおとすものなんですね。まちがいの直視を拒ませるんです。「頭のわるいじぶん」を、だれしも認めたくないんですね。
頭がよいとかわるいとかいうことについて、すこし考え直してみませんか。
頭のよさってなんですか? IQの高さですか? 知識の多さですか? 電気信号の行き交いのなめらかさですか?
「地頭」なんて言いかたも、わたしは好きにはなれません。わたしはどれだけこのことばに苦しめられてきたでしょう。
「りっぱな大学をでているのに……」
「修士号までもっているのに……」
卓番もメニューも覚えられないなんて。ホイコーロー弁当をひっくり返しちまうなんて。運転免許もとれないなんて。領収書の書きかたすら、おぼつかないなんて。
「地頭のほうはね……!」
ばかって残酷なことばですよ。
それは相手に、お前は無意味な存在だって宣告しているようなものなんです。
お前の考え、お前の現実、お前の世界、それ、ぜんぶまちがいだぞって。
どうしてそんなむごいこと、他人に言ってしまいたくなるのでしょう?
それはじぶんが「ばか」かもしれないと脅えているからではないでしょうか? こいつが正しいなら、まちがっているのはおれのほうだと白か黒かの世界観に陥ってしまっているからではないでしょうか? だとしたら、こんなかなしいことはないじゃないですか。
頭がいいとかわるいとか、勉強ができるとか地頭がざんねんだとか、そんなことにこだわるのはもうやめにしませんか。
それらはすべて、状態なんです。時によるんです。
人間だれでもかしこいときもあればおろかなときもある。それだけのことなんです。
じぶんのリズムで好きにものを考えられているとき、だれだって最高の賢者なんです。
その反対に、罵声をあびながらしあげた作文はどうですか。脅しをうけながら記述したレポートはどうですか。生硬なたわごと以外を記すのはむずかしいと思いますよ。
ばかとかぐずとか、そういうことばは朗らかさ抜きに口にしてはいけないんです。
自分自身に対してもです。
開き直りのきわみに達しているのなら、それもひとつの知恵たりうると思いますよ。
「我は愚人の心なるかな」
これは老子の境地です。
「学を絶てば憂いなし」
きびしいことばですね。なかなかここまでは振りきれないんじゃないでしょうか?
「善と悪と相去ること何若ぞ」
……こんな仙境にまであくがれてゆける目途が立ちそうにないなら(わたしもむりそうです)、どうか自己否定はやめてください。
とはいえわたしがそんなふうにお伝えをしてもきっと説得力はないんでしょうね。
わたしはふんだんな自己否定だけを主要な資源にここまでやる気を精製してきたような人間だからです。
それはすさまじいエネルギーをうむんです。
「やらなきゃ死ぬ」と思えばだれでもやるんですね。
「死ぬ」というか、「生きている価値がない」と思うんです。
学歴エリートになりたいとか、外車で寿司屋に通いたいとか、そんなきんきらの下心からのこじゃれた自己研鑽ごっこなどでなく、価値のないじぶんからの脱出を急務とした全身全霊の逃避行ですから、とにかくもう、むちゃくちゃに勉強するんですね。
じぶんのだめさにしんそこ打ちのめされているひとは、そのだめ人間から遠ざかるためならどんな努力でも厭わないんです。
それで高三のころ、全国模試で二番になったこともあります。
「陰謀だ」とおもいました。「イルミナティの暗躍だ。おれを、油断させようとしているんだ」
なぜならこんなうすのろに、こんな華々しい成果をおさめることなどぜったいに不可能だと信じきっているからです。
それで安堵も誇りもなしに、いっそう勉強しはじめるんです。
これは一種の病気です。その発作は、ここで勤めはじめてからもしばしばわたしをおそっています。
わたしは塾長に、けっこうな劣等感をおぼえているんですね。ちょっとした雑談の最中にも、「おいおい、このひとどれだけシナプスが多いのか」こう青ざめることが何度もあるんです。そこで終わればたんなる尊敬なのですが、わたしの場合、
「それにくらべておれは……」「おれがきてからこの塾は……」と奈落へむかってしまうんですね。
「なんと、たよりない教師であることか……」
「おれも、もっと頭がよくならなければ……」
「塾がつぶれる……」
「没落する……」
「おれが……」
「おれのせいで……」
「おれがつぶすのだ……」
「おれが、頭のわるい教師であるせいで……」
それで葎のしげった教室の跡地が見えてくるんです。野ざらしの白骨と化したわたしと塾長もうかんでくるんです。
あせって、いろいろなことを試すんです。アメリカのサプリを大量発注したり、アマゾンでシャーマンに異次元のヴィジョンを見せてもらおうとペルー行きの航空券を購入しかけたり。
どうにかじぶんに付加価値をつけようとあくせくしはじめるんです。モンドセレクション認定をほしがるハムのようなものですね。
あるいは、もうどうにもならないと悟ったときなどは国立博物館に通いつめ、弥生土器などを眺めながら「頭がよくてもわるくても……」「どうせいつかはみんな死ぬ……」そんな自己慰撫的な観想におぼれたこともありました。
ラカン派の精神分析をうけようとしたり、ヴィパッサナー瞑想をはじめたり(いまでもやっています)……。
もうれつに語学をやった時期もありました。
古典ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、パーリ語……。教養人へのねたみとあこがれが爆発したんです。
これはじっさい、読めるようにはなるんです。できなきゃ生きてる価値はない、それがそのときのわたしの世界の絶対法則なんですから。
文法書を叩きこんで、長文をむさぼり読んで、ひたすらに音読をくり返す……。
ひたすらというのも、誇張でなく、ほんとうにひたすらなんです。
ギリシア語であれば、アテナイ人よりも多弁になるんです。
パーリ語なら、どんな比丘よりも読経にはげむんです。一日何時間でもぶっ通しで。
これは古文や漢文でも、ほんとうにすらすら読めるようになりたいひとにはおすすめの勉強法です。どういうわけだか、理屈ぬきで意味がとれるようになってきますから(江戸時代のひとびとも、漢文学習で、素読というやりかたをとっていたそうですね)。
それでプラトンとか、ホメロスとかセネカとか、仏典とかを「読破」して、なにが変わったのか?
けっきょくなんにも変わらないんですね。
たまに見学のひとが来て、「あれ? 東大の先生じゃないの?」とかいわれると、グサッと泣きたくなっているじぶんがいるんです。
「くそう、くやしい。うだつがあがらない。おれはギリシア・ローマの遺産にも、古代インドの叡智にだって、こんなにもつうじているというのに……!」
そんなふうに心中くさくさぼやいてるんです。みっともないでしょう。これが頭のわるくなっている状態です。
こんなぐあいですよ。
いいですか。
開発、教化、保護。いかなる名目のもとであっても、人生早期に侵略をうけた精神は荒みます。そして、ある種の肥沃さは、二度と回復されることはありません。
「とんだ世界に出生してしまったもんだなあ」
ぜんぜんたのしからぬ「おたのしみ会」の最中、わたしはそうなげきながらにかにかのつくり笑いで凍っていました。
「出口はどこにあるんだろう?」
しかし大帝国の将軍のような教師たちは、わたしのリアルな「たのしくなさ」を奪いとりました。すくなくとも、それをわたしなりのことばで表明することをゆるしませんでした。「くだらなかったです」は「おもしろかったです」に、「二度とやりたくありません」は「来年もたのしみです」に、書きかえさせられました。
わたしも当時の担任教師も、まぎれもないおなじ日本語の母語話者であるはずなのに、住んでいる言語世界はアステカ人とスペイン人ほども隔たっていたのです。
この世でもっとも無益でやるせないのは、分裂した魂同士のもめごとに翻弄されながら、あるまとまった歳月をすごさねばならないことです。
わたしのこころのおおかたの部分は教師の体現するものの側につき、もういっぽうの貧弱な勢力だけがやっと、わたし自身のなけなしの味方でした。わたしはそれらの定期的な衝突のたびに講和の道をさぐり、そして、疲弊しました。
ある戦争が、ある画期的な爆弾の投下をまってようやく終結したように、わたしの内戦を終えるためには、ある人生上の一大事件が不可欠でした。
それがもっと早く起こればよかったと未練がましく思うこともありますし、もしもそんな偶然にめぐまれなかったらとそら恐ろしくなることもたびたびあります。
しかし、なんにせよいえるのは、もっとなにごとも笑い飛ばしながら生きてきたかったということです。
もしもういちど子ども時代にもどれるのなら、わたしはわたしを威圧するすべての大人たちに鼻くそ爆弾や小便砲をおみまいしてやるでしょう。そしてけたけたと、情熱的に笑うんです。ねずみ花火にでもなったみたいに、笑いつづけるんです。
わたしがのちのち死ぬほど苦労して奪還をこころみるはめになったわたし自身の魂の特定領域を、もう二度とぜったいにはじめから実効支配させないよう、死にもの狂いで守りぬくんです。
あなたがもしまわりと協調しそこなおうと提出物を出しそびれようと、成績表が「あと一歩」づくめだろうとシャトルランでぶっちぎりのびりだろうと、それでなお、ある種平和ぼけ的なあかるさを維持していられるのなら、それはわたしにはこのうえない宝であるように見えますから、どうかよけいな自己批判へとむかったり、世のなかへの呪詛をはじめたりはしないでください。だれに向けるのであれ、否定という行為にはあまりにも多くの罠がひそんでいます。なかなか飛びこえられませんから、ちかづかないでください。
以前授業で『貝の火』という物語を読みました。宮沢賢治です。おはなしの最後、目の見えなくなってしまったホモイにむかって、お父さんがこう語りかけます。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな」
あなたの貝の火はまだ健在ですか。一生貝の火のこわれない人はいるのでしょうか。あるいはそもそもそれを授かる機会もないひとは。
わたしはこのお父さんのようにあなたをみちびくことはきっとできません。けれどもあなたが、あなた自身をこのようになぐさめていくためのことばを見いだすお手伝いならば、もしかしたらすこしくらいはできるかもしれません。
きついことばの気配に怯まずのびのびやれる環境で、あなたなりの知性が最大に発揮される瞬間を感じてみませんか。
けんけんと他人をねじ伏せるためでなく、えらそうな連中の心をとろかすためでもない、ただあなた自身の魂へのいたわりの精度を向上させるための手段として、ことばの技術の探究に時間をそそいでみませんか。
もちろんふつうに国語も教えさせてもらいます(生徒さんがいなくなったらどうしよう、そんな不安にとらわれて、あわてて書き添えてしまいました。これが大人というものです)。