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読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。

わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!

苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。

慣用句や四字熟語はもちろん、和歌・俳句から文学史まで。国語に関して知っておきたい知識を、わかりやすくまとめてあります。

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読むことについて

 本は読んでもいいものですし、読まなくてもいいものです。まずその前提からはじめなければ息苦しくってしかたないと思うんです。本をたくさん読んだからといってそのまま国語が得意になるわけではありません(なりがちだとはいえるでしょうが)。好きなとおりに本を読むことと、与えられた文章を緻密に読み解くことはまったくちがう作業だからです。後者がのぞましい自己投資で、前者はくだらない時間の浪費だというわけでもありません。

 また、いうまでもないことですが、本をたくさん読んだからといって知的な人間になれるわけでもありません。「まさかそんな」と思うひとは、ぜひ教室に来てください。わたしがここにいます。まぬけな読書家の好例をお見せします。

 本はたくさん読まなければならないのではないか。いろいろな物事に通じなければならないのではないかという思い込みの生じがちな世の中で暮らさねばならないのは大変なことですよね。わたしもさっき読書家を自称しておいてなんですが、興味のある本以外はぜんぜん頭に入ってこないんです。読んだそばから中身をすっぽり忘れてしまうんです。とくに自然科学とか歴史系とかはまるでだめなんですね。わたしは大隈重信というひとの銅像のある大学に修士課程まで七年通っていたのですが、いまだにそのひとがなにをどうしたひとなのかよく知らないんです。「これじゃあさすがに」と中央公論社の、シリーズ『日本の歴史』を注文して一から読みはじめてみるのですが、すぐに眠ってしまうんですね。エスタロンモカを服用してもだめなんです。いつも応仁の乱くらいで投げだしてしまうんです。「まいったなあ」と思います。あくびがでるんです。よだれが落ちたりもするんです。京の燃えているページに。

 そんな人間のいうことですから、話半分に聞いてほしいのですが、本は読みたいものだけ読めばいいんです。ぜんぶ読み通さなくてもいいんです。飽きたらやめていいんです。気になるところから読んだらいいんです。それで「おっ」となにかを感じたら、もう少しぱらぱら捲ってみてください。惹かれるところが、あるかもしれませんしないかもしれません。それも飽きたらやめてしまいましょう。むりやり読んでもなんの意味もありません。読書は労働じゃないんです。この世界ではなんでも労働と化しすぎです。本くらい気ままに捲ったらいいんです。ただ、買った本を何冊も途中で投げだしていたらお金がもったいないので、図書館をつかったらいいでしょう。いっぱい借りて、いっぱい捲って、いっぱい眺めて、飽きたらどんどん返しましょう。それをくり返すんです。記憶に残るものも、そうでないものもあるでしょう。その差がくっきりしてくるでしょう。そのうちに、じぶんの好みがわかってくるんです。「これは」という一冊と、もしかしたら遭遇するかもしれないんです(しないかもしれませんが)。そうしたら、じっくり愛読してみるのもいいでしょう。それはなんでもいいんです。マンガでもラノベでも図鑑でもマイクラの攻略本でも、なんでも読んだらいいと思います。じっくり観察してみてください。書いてあることでも、自分の気持ちでも。べつに感想文映えすることばかりを考えなくっていいんです。名著でも知的遺産でも世界的文豪の最高傑作でも、惹かれなければ気がねなく腐したらいいんです。わたしだってたとえば三島由紀夫なんか、なにがいいのかさっぱりわからないですよ。わからないことはわからないと言ったらいいんです。それはものすごく大切なことですよ。しかしわからない人を笑ったり、怒ったりしたくなる気持ちの底にはなにがひそんでいるのでしょう?

 以前授業で『セロ弾きのゴーシュ』を読んだんですね。そのなかで、かっこうがゴーシュをたずねてくるところがあるんです。それでゴーシュに、「ドレミファを教えてください」というんです。ゴーシュは、しぶしぶ教えるんですね。セロを弾くんです。それに合わせてかっこうが、「かっこう、かっこう、かっこう」と歌います。はじめゴーシュは、ちょっと馬鹿にしているんですね。なんだ、かっこう、かっこうって。ぜんぶおんなじじゃないかと。けれどもそのうち、かっこうと音を合わせつづけるうち、不安になってくるんです。あれ、なんだかおかしいな。どういうことだろう? おれがドレミファを教えてやっているはずなのに、これはもしかして、かっこうの鳴き声のほうが、歌として本物なんじゃないか? 律儀に音階をたどるおれのほうが、つまらないことをやっているんじゃないか? そんな疑念にとらわれはじめるんですね。そしてそれはゴーシュに怒りを生むんです。

 人間は、かなうなら世界をドレミファづくめにしてしまいたいと思いがちなところがあるようなんですね。古代ギリシア以来、ドレミファの光をどこまでも行きわたらせたいと望みつづけてきたようなんです。けれども当然のことですが世界にはかっこうもいるわけです。むしろ世界はかっこうでしょう。それでゴーシュは不安になったのです。不安になれるだけえらい気もします。けれどもその不安を、その底にあるものをこのときは見通すことができませんでした。それで怒ってしまったんです。脆さをかくすなら、怒りと相場がきまっているからです。

 しかしかっこうは、鳴かせようと思って鳴かせられるものでもなさそうです。また、切って棄てられるものでもありません。どこかの殿様にとってのほととぎすとは別物なんです。鳴くまで待つといったって、その待ちかたも重要なのです。

 それでわたしは教室は、できるかぎりゆったりさせておきたいと思っています(なかなかそうもいきませんが)。そうでなければかっこうの声はほとんど聴こえてこないからです。ここは必勝鉢巻を締めて絶対合格を誓ったり、最後の夏休みを天王山と表現したりするような塾ではありません。やる気のでるボタンを押下することもできません。これに関してはほんとうにごめんなさい。わたしは、「この先生のためならがんばろう」という気にさせるようなオーラやカリスマ性に、どうも欠けているようなんです。思案やためらいが常態なんです。ご本人の存在の固有性を無視した特定方向への熱烈なみちびきは、わたしにはできません。世界は宇宙空間ですから、上も下もできればないほうがいいと思っています(しかし、そうもいかないわけですが)。

 わたしは、そのときのそのひとに望ましいと思われることを、あるいはそのうちに身につけてみてもよさそうなことを、そのひとに合ったやりかたで、わたしの力のゆるす範囲で、あるときははっきりと、あるときはまわりくどくお伝えしようと試みさせてもらっています。それだけでいっぱいいっぱいです。それはうまくいくこともありますし、うまくいかないこともあります。けれども大きな塾の苦手なかた、国語の勉強の苦手なかた、それで劣等感を覚えてしまっているかた、成績はよくても世の中のことばになにか違和感のあるかた、読むことや書くことの勉強を真剣にしたいかた、そういうかたがたにとっては、もしかしたらそう居心地のわるい場所というわけでもないかもしれません。ぜひ、ご連絡ください。いっしょにゆったり勉強してみましょう。

 



投稿者: フィロソフィア国語教室投稿日時: 2024年9月6日 13時52分