読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!
苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。
慣用句や四字熟語はもちろん、和歌・俳句から文学史まで。国語に関して知っておきたい知識を、わかりやすくまとめてあります。
●国語以外もお任せ下さい!優秀な講師陣が全教科に個別で対応する「フィロソフィア寺子屋教室」も運営しております。
●小論文の持ち込み歓迎!通常授業に通えない方や、短期間で臨時に対策を必要とする方に、個別で小論文指導をします。
●一般向け講座、講演会、セミナーも実施!地域における学術・文化の拠点として、開かれた私塾を目指します。
こんにちは。講師の八柳です。今日から新学期の授業がはじまります。このあいだ塾長も書いていましたが、現在わたしがほぼすべての授業を受け持っています。今学期の時間割は、以下の通りです。
・火曜日 16時~17時 小学生基礎クラス
17時~19時 寺子屋式クラス
19時~21時 中学生クラス
・金曜日 16時~17時 小学生基礎クラス
17時~19時 作文・精読クラス
19時~21時 高校生クラス
・土曜日 14時~16時 寺子屋式クラス
16時~18時 寺子屋式クラス
金曜日の「作文・精読」以外はすべていわゆる個別指導形式です。
さまざまなレベルの記述式読解問題(小学二年生くらいから大学受験生まで)、いろいろな趣向の作文問題(与えられた語彙をつかっておはなしを書くもの、テーマに従って意見を述べるもの、主張を読み取って要約するものなど)をご用意してはいますが、ご家庭や生徒さんのご要望に応じて、柔軟に対応いたします。
学校の宿題を教えてほしい、テスト直前なので対策がしたい、読書感想文が書けなくてこまっている、志望校の過去問演習をしてほしい、国語よりも英語を教えてほしいなど……。ちいさな塾ですから、いつも目の前のその人に合った内容を、できるかぎりその時にふさわしいやり方で、ご提供いたします。
教室の雰囲気でいいますと、おおむねなごやかです。わたしは、人間の最大の知性が発揮されるのは、その人の精神がもっとも自由なときであると考えています。もちろん、それは何でも好き放題にやっていいなどという意味ではありません。例えば存分に居眠りしてよいだとか、スマホゲームにふけってよいということではありえません。そういうとき、人は多くの場合ある種の衝動に支配されているのであって、むしろ自由からかぎりなく遠い状態にあるからです。
おなじように、「やれ」と言われてやっている状態、不安、恐怖、焦り、虚栄心など、ネガティブな情動に支配されて勉強をしている状態では、人は多くのことを学びとることは決してできません。知識や情報のごときものはいくらかインプット可能かもしれませんが、それをぞんぶんに生かしていくための気力や創造性が死滅してしまいます。これはあまりに大きな代償ではないでしょうか。
ちょっと誰かが立ち歩いたからといって、少しおしゃべりが起こったからといって、それがなんだというのでしょう。われわれは、いつなにが起こるのかわからない世界に生きているのであり、それは教室のなかでも同様です。雑談からも、ホワイトボードのラクガキからも、学べることはあります。声を荒らげて叱りつければ子どもたちは黙って座ってくれるかもしれませんが、気まずい空気のなか書いた作文がおもしろくなるでしょうか。わたしは、正直なところ「困ったなあ……」とまったく思わないわけでもないのですが、それでも「クラスが崩壊することはないだろう」と根っこのところでは生徒さんがたを信頼しています(じっさい、五分もたてば彼らは前にも増して集中しはじめるのです)。
わたしは、教室に来てくれる生徒さんがたに、ことばの最も厳密な意味で「自由」に学べる環境を提供し、やる気がでたり、でなかったりする授業のなかで、じぶんの内なる「知性」のかたちを見いだしてほしいと願っています。知性というのは、高いとか低いとかいって比べられるものでなく、測定可能なものでなく、恒常不変なものでなく、万人に一律なものでもない――そうでなく、時により生じたり、生じなかったりするものなのだ。誰にでもそれぞれにその人なりのかしこさと愚かさとが、混然とそなわっているものなのだ。そういうことを実感してほしいと思っています。そして皆さん、じぶん固有の知性ができるだけ発揮される機会の多いその方向に、悠々と、自信をもって、独自の人生を生きていってほしいと思っています。
そのためにわたしが有効だと考えているのが、ことばの勉強です。ことばはわれわれ人間にとって、ただひとつの、現実発見の手段です。われわれの認識は、わたしなどが言うまでもなく、ことばによっておこなわれています。生徒さんがたにはたくさんのことばを知ってほしいと思います。そしてたくさんの違和感を抱いてほしいと思います。なんか、むしゃくしゃする……。なんか、もやもやする……。怒り……? いや……。悲しみ……? こんなふうに、自分の見たもの、聴いたこと、感じたことについて、たくさんもどかしさを覚えてください。そしてことばをどんどん緻密化していってください。「チェスが下手だからといって、チェスのルールにけちをつけるのは不毛だ」と作家のモームがたしかどこかに書いていました(わたしの記憶ちがいかもしれませんが)。しかしわたしはそうは思いません。皆さんは、納得いかないことについて、精緻にけちをつけられるようになってください。「私はそもそもチェスなんてやりたいと言ったろうか?」と、根源的な思索をはじめられるようになってください。世界がチェス盤でなく、ビリヤード台や野球場、まったくの更地だった可能性について、強度ある想像力を駆使できるようになってください。
「社会貢献」「多様性」「SDGs」「利他」そういう簡便な、社会的威光をともなった流行語でなにかを思考した気になどならないでください。慣用句だとか故事成語、「知的な上級語彙」、「うつくしい大和ことば」のたぐいなど、したり顔で弄するようにはならないでください。それよりも、まずは自分のことばを発見してください。そして自分の現実を発見してください。
さっき、ぱらぱらカフカ(作家です)の日記を捲っていましたら、こんな一節が目につきました。「世界と自己とが対立する場合、世界の側に就くこと」。カフカの真意はわたしにはわかりませんが、わたしは、ことばの勉強においてはまず徹底的に自己の側に就いてみてもよいのではないかと思います。もちろん、独り善がりの世界に閉じこもるということではありません。結果的に、それが「世界の側に就く」ことにもつながると感じます。
以前、アンコールワットに行ったとき、石壁にラーヴァナという鬼神のすがたが彫りこまれていました。これは頭が十、腕が二十もある怪物です。「どうしてこんなすがたに」ということを、ガイドさんが説明してくれて、たしかラーマーヤナという叙事詩にも書いてあったのですが、もともと人間だったラーヴァナは、修行をものすごくがんばったので、神が来て、「なんでも望みをかなえてやる」と言ったところ、「不死身にしてくれ」と望み、それがかなえられてすべての頭をいっぺんに斬られないかぎり死なない(という話だったとたしか思います)あんな肉体を手に入れたのだそうです。それで、その所望した不死のからだで何をしているかというと、他人の妻をさらったり、征服戦争に明け暮れたりしているのです。
その話を知ったとき、わたしが思ったのは、「ラーヴァナは、国語教室に通うべきだった」ということでした。もっとも、こんな化け物に訪ねて来られても、わたしはサンスクリットも初歩しかわかりませんし、じょうずに対応できる自信もないのですが。
しかし、どうしてラーヴァナは望みを問われたとき、もっとましなことが言えなかったのでしょう。頭はいくつあってもせいぜい頭です。支配領域もたかだか土地でしょう。不死にせよ、それについてくる権力にせよ富にせよ、修業の果てに望むにはきわめて凡庸です。もっとぶっ飛んだことに思いを遣ってみたらよかったのではないでしょうか。別な世界、異質な宇宙。新天地。見たこともない動物たち、きいたこともない音楽、味わったことのない感情……。そういうものを、想像してみられたらよかったのではないでしょうか。しかし、できなかったのです。ラーヴァナは、「なんでも望みを叶えてやると言われた人が言いそうな(言うべき)こと」についてはよく知っていたのですが、自分固有の望みについてはなにも知らなかったのです。それを見いだすことばを、持たなかったのです。