読解問題には、読み方・解き方がある!
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こんにちは!鈴木です。
1ヶ月ほど前になりますが、本教室代表の坂爪が、毎日新聞「論点」のインタビューを受け、
記事が9月4日朝刊に掲載されました。
現在中央教育審議会で議論されている「教育改革」がテーマのこの特集。
ニュースでも連日、大学入試改革について報道されていますが、
社会変化のスピードに伴い、さらなる改革案が打ち出されています。
公教育ではない塾という現場で子どもたちの指導にあたる中、
読解力の育成について考えてきたことを記事にしていただきました。
以下、毎日新聞(令和元年9月4日)より引用
諮問からは、人工知能に見られるような科学技術の急速な発展に伴う大きな社会変動を踏まえ、
新時代にふさわしい能力を育もうという意図が読み取れる。AIに代替されない人材を育成しようというわけだ。
私は都内で国語塾を主宰しているが、
こうした指針のもとで基礎的な読解力が重視されていることに共鳴する一方、懸念も抱いた。
近年、国際的な学習到達度調査(PISA)の影響を受け、
入試や学校教育で求められる読解力は大きく変わりつつある。
複数の資料を関連づけて読み、「なぜこの資料は書かれたのか」「なぜこの文章形式なのか」と
考察させる問題が出されている。
従来の国語教育で手薄だったメタ的な思考を育てる意義は大きい。
他方、題材としては専門的な評論や本格的な文学作品が減り、日常生活に密着した文章が増えた。
複数の実用的な資料を素早く把握、整理するためには、
言葉とじっくりと向き合うような読解法よりも、大量の情報をすばやく処理する作業が求められる。
こうした訓練が新時代にふさわしい能力につながるのか疑問だ。
これから必要とされる「読解力」は、単なる「情報処理能力」ではなく、批判的で創造的なものであるはずだ。
そもそも、読み取ったことを解釈して活用することまで含めた読解力、すなわちリテラシーには三段階がある。
第一段階は機能的リテラシーと呼ばれるもので、社会生活に必要な最低限の読み書き能力だ。
第二段階は文化的リテラシーと言い、共同体に固有の歴史や文化に関わる知識を意味する。
第三段階が批判的リテラシーであり、情報や社会の現状を批判的に考察する力である。
私は、公教育が果たせる役割は、せいぜい第二段階の養成までであると思う。
社会がこれだけ複雑化すると機能的リテラシーすら高度化し、従来の「読み書き計算」では済まない。
また、これまで常識として受け継がれていた歴史的・文化的な知識が、
子どもたちの間では驚くほど共有されなくなっている。
まして移民の受容と教育が深刻な課題となりつつある今日、
この二つのリテラシーを習得させるだけでも多くの困難があり、公教育の責務は大きい。
では、創造性につながるような批判的リテラシーはどこで育むか。
公教育に期待しすぎず、社会全体で育むことだ。
家庭で、町で、様々な私的教育機関で、子どもたちに多様な知的経験を積んで欲しい。
教育の多様性が保たれていることこそ社会の活力の証であり、未来の保障となる。
教育を学校に丸投げしてはいけない。
教育改革は、社会の変動に歩調をあわせて叫ばれ続けてきた。
そのつど教師と保護者と子どもは翻弄され、成果のよくわからないまま新たな改革が始まる。
だがそんな中でも、お上の方針とは程よく距離をとり、
独自の教育に邁進する無数の名もなき大人たちがいたし、今も全国にいるはずだ。
家庭で、塾で、学校で、今日も目の前の子どものために最善を尽くしている心ある同志に期待したい。
【聞き手・鈴木英生】
坂爪 彬(さかづめ・あきら) 1981年生まれ。東京大大学院博士課程退学。
学部生時代、東京都内に国語塾を開業。
09年、同杉並区内に「フィロソフィア国語教室」を開く。
江戸時代の私塾に憧れ、地域における知的文化的拠点作りに取り組んでいる。
どこまでを公教育で担えるのだろう。塾でこそ教えられることは何だろう。
この記事は、私自身も教育について改めて考えるきっかけとなりました。
以前にもブログで書きましたが、私は一昨年まで高校の学校現場で働いていました。
少し恥ずかしいですが、高校教員を選んだ理由は2つ。
一つには、自分が母校でしてもらったように、成長していく高校生たちを支えたいという思いから、
一つには、大学で苦労しつつも知った、読み、書き、考えることの面白さを生徒に伝えたいという思いからです。
赴任した高校は地方の公立高校で、地域にはOBがたくさんいるような、地域に根付き愛されている学校でした。
生徒たちは高校に入るとほぼ全員が部活動に所属し、平日も休日も関係なしに学校へ来ます。
宿題だってかなりの量。
生活の中心は学校で、次から次へとある小テストや課題や部活の大会についていくことは容易くはないのだけれど、
その苦しさを乗り越えて文武両道を目指すことに価値がある、という考え方です。
私も高校時代はその価値観でいましたが、いざ教員になってみると、その仕事量の多さに驚きました。
生徒を学校中心で生活させるということは、
教員もそれと同じかそれ以上の熱量で学校と向き合うということです。
授業はもちろん、学級運営、部活動顧問、分掌業務、進路指導などやらねばならないことは多岐にわたり、
そのどれもに締め切りがあり、でも、生徒に関わる部分で手は抜きたくない…。
どうしたら回していけるのか、ベテラン先生たちですら忙しくしているのに、新人にはとてもわかりません。
生徒たちと関わるのは面白いのですが、それを感じる余裕がない時期が長く続きました。
また、学校の風土として生徒には多くの宿題や部活の練習を課すわけですが、
そのチェックや対応にも追われ、教員たちが自分で自分の首をしめているようにも思えます。
でも、それで卒業生たちが成果を出しているから。
教員側でペースをつくって、そこに乗っからせる。そのやり方がきっと生徒のためだから。
恐らく、生徒のために、「あれも、これも」状態だったのでしょう。
また、「あの高校に行けばしっかり面倒を見てもらえる」という手厚さを売りにしていたこともあると思います。
私は本当にただこなすだけのテストや課題に意味があるのか、疑問に思うことも少なくありませんでしたが
(今思えば他にも疑問に思っている先生はいたと思いますが)
そういうものと信じこみ、生徒たちに発破をかけるしかありませんでした。
しかし、このままでは、生徒も教員もあまりにも学校外との関わりがなさすぎる。
広く世の中に目を向け、試験の点数には関係ないところを、授業の中でじっくり考える取り組みは難しい。
教員も生徒もあくせくしている中で、深く読み、考え、味わうところまで頭が向かない。
私自身の力量不足は重々承知で、そのときどきで、生徒が少しでも問題意識をもって
教材を読めるように工夫するのが精一杯のできることでした。
そこに迫ってきたのが大学入試改革です。研修や会議では「授業改革を!」と繰り返し言われます。
もちろん思考力を伸ばそう、という考えには共感できるのですが、
当時は「アクティブラーニング」という言葉がひとり歩きし、はっきりと見える形での改革や評価を求める向きに、
「変えること」自体が目的になっている気がして、違和感を覚えました。
改革を前向きに進めていくというよりは、また業務が増える…という雰囲気が職員室に漂いました。
行政のもと運営される公教育の、こうした改革に翻弄されてしまうという側面を身に染みて感じたものです。
本当に生徒のために必要なことって何だろう。
公教育はどこまで担うべきなのだろう。
学校に囲いこむことだけがいいことなのだろうか…?
転居を機に教員を退職した今も、学校教育に関するニュースや意見を見かけると、つい考え込んでしまいます。
学校は応援したいけれど、きっとほかの教育もこういう時代だからこそ大切なのでしょう。
この教室で丁寧に考えるという学びの在り方を目にし、
そして上記の記事を読み、
学校に任せきりにしない地域の教育が必要だし、そういった場は実現できるんだという思いを、今、持っています。