読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。
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わたしは趣味で古典ギリシア語を読んでいるのですが、ギリシアの人びとがとくにおそれたものとして「モイラ」というのがあるようです。
これは、もともとは「割り当て」という意味なのですが、そのうちに「寿命」(人間に割り当てられたもの)を意味するようになり、またそのうちに「運命」とも解されるようになったことばで、ギリシア人たちは、複数形で「モイライ」と呼ばれる三姉妹の女神が、運命の糸を紡いだり測ったり裁ち切ったりして、人間の生きざまをきめているのだと考えていました。
不死の神々にくらべれば、人間は改変不能なモイラに翻弄されるほかない、まったく無力な存在である。
このような考えかたのもと、いろいろな叙事詩や悲劇がつくられました。
『イーリアス』という叙事詩では、トロイア戦争の一部が語られているのですが、神々は気楽なもので、人間同士のおおまじめな殺しあいに、気まぐれに加担したり傍観を決めこんだりしています。
たまに、ひいきの英雄がピンチに陥ると、人間のふりをして軍勢に忍びこみ、叡智の助言をさずけます。
英雄は、不幸にもかしこいので、神の指令とあっては、むげにするわけにもいきません。
「はいはい、わかったわかった」とか「ういーす。頭の片隅にいれときますわ」とかではすまされず、ピシッと履行にむかいます。
仮に、そのあたりの道理をわきまえ損ねれば、きっと不幸な目にあわずにはいられないのです。
ヘロドトスというひとの『歴史』という本には、神託の読みちがいのせいで滅んだ国のことがいくつもでてきます。神々の意思は絶対であり、人間に、あらがうことは許されないのです。
ギリシア悲劇では、登場人物がこの絶対的なものにあらがおうとして、そして、けっきょくは負けていくさまがよく描かれています。
とくに有名なのはソフォクレスというひとの『オイディプス王』という作品で、これは、主人公のオイディプスという王さまが、国の疫病や飢饉の原因を突きとめようとすると、予言者が、「前の王さまを殺したやつのせいである」というので、じゃあその先王殺害犯をつかまえるから、そいつの名前を教えなさい。そう命じると予言者はなぜか言いしぶる。じつは犯人とはオイディプス自身なのです。
当然、本人としては身に覚えのないことですからオイディプスは、予言者をこのインチキやろうと罵って、しりぞけてしまうのですが、それでもやっぱり予言は予言なので気になって、アリバイみたいなものをかきあつめだすのですが、そうすればするほど、くわしくは書きませんが、じつは、知らないうちに前の王さまを殺していたことがあきらかになってくる。
しかも、オイディプスは棄て子なのですが、前の王さまというのは実の父であって、いま、じぶんが奥さんにしているひと、つまり王妃さまはほんとうはお母さんだったのです。
それがわかったオイディプスは、絶望してみずから目をつぶし、国を飛びだして乞食になってしまいます。予(預)言のまちがいを証明しようとしたのですが、それはかなわなかった。それは神からのメッセージであり、まちがいであるはずがないのです。
未来がすでに決められてしまっている。これはそうとうくるしい世界観です。
こういう世界認識のもとでは、過去にあったこと、すべてをたったひとつの未来、すなわち結果のための原因としてしか見なせなくなってしまいます。
寄り道や、道草はゆるされません。
それすらも、精緻な女神の織りものの一部ということになってしまうのです。
アリストテレスというひとは、悲劇という文学ジャンルの本質について、こう定義しました。「登場人物が、悪行ゆえにでなく、あやまちゆえに、不幸になってしまう物語」。
くせものなのは、不幸そのものでなく、「ゆえに」という考えかたではないでしょうか。
われわれは、過去や現在や未来について、「あれがああだからこうなった」「これがこうだからああなるだろう」というひとつの見かたに縛られているかぎり、悲劇の世界に暮らしています。
まじめであればあるほどそういうものの見かたにとらわれやすくて、鬱病などにもなりやすい性格だとされていますが、わたしは、まじめと従順とはわけて考えるべきだとおもいます。
従順であることは、すこしもまじめでありません。神や王さまや先生やCEOの命令だからといって、「へいへい」と無条件にしたがってばかりなのは、じぶんでなんにも考えていない証拠でしょう。
かといって、なんでもかんでも食ってかかるのが「まじめ」なやりかたともおもえません。それは多くのばあいじぶんの感情や衝動に白旗をあげている態度だからです。
なんにも、とはいいませんが、あんまりじっくりと考えられていない点では、裏がえしの従順さにすぎないでしょう。おかしなものはなんでもひっくり返したり、たたき割ったりすればいいというものでもありません。
学校というものは、ひとことでいえば国の役にたつひとを育てるための場所ですから、従順さを是としているのはあたりまえなのですが、そればっかりが「まじめさ」だと思いこんでしまっては、たいした勉強はできません。その「まじめさ」を少々ひねった「ふまじめさ」も、ちんけなものになるでしょう。
国の役にたてといったって、現実問題として、むりな人間はいるわけです。わたしもそのひとりです。
このあいだ、乳児をつれた友だちと会いました。
五か月の赤ちゃんは、まだ首もすわりたてで、ボックス席に数秒ぺたんと尻を接地することがもうとんでもない大偉業、ミルクをのんでも、げっぷをしても、急に泣きだしてもいつの間にかねむってしまっても、なにをしたって祝福のあらしで、これまでに友人の撮った息子の写真の総数は、二千枚にも達するそうなのです。
それは一日で、だいたい何枚ほど撮っている計算になるのか、算数の苦手なわたしにはちょっとパッとはでてきませんが、とにかくかわいくてたまらないのでしょう。
けれどもあぶあぶと、口の端から白い泡を噴きだしてほほ笑んでもらえる時代はすぐに過ぎ去って、約束の地に住んでいるわけでもないわれわれは、乳や蜜にあたるものを獲得するためにけっこうな苦労をしなければならないことを知っていて、じぶんにも、他人にもついついきびしくなってしまいます。
何々しなければ、とか何々するべきだ、とかいたるところで思いこまされて、儲けたもん勝ち主義の世のなかで、うまく稼げていなければそれはあのとき何々できなかったから、とか、何々しておけばこんなことにならなかったのに、とか、いちどレールを外れたら、この先もずっとみじめにちがいない、などと、悲劇の思考法にとらわれていくのです。
このときに、従順さというかたちでしかまじめさを知らないと、運命を呪うか恐れるかという二択しかでてきません。
なぜなら、従順なひとにとってじぶんを痛めつけるものはとにかくえらく見えるのであり、えらいものを前にすると、われわれは、つまらないことしかできなくなるからです。
文科省のいう「美しい日本語」とか「豊かな情緒」とか、ああいうものを真にうけているひとがどれだけいるのか知りませんが、そこには、なにが美しさで豊かさなのか、そういうことはおれらが決める、だからおまえら従っておけ、という、ふんぞり返りが見えるわけですが、それにハイハイと従ってみても、運命とよばれるものとのほどよい付きあいかたを学ぶことはできません。それは人生から手ほどきをうけるべきことだといわれればそれもそうですが、しかし、経験がすべてを教えてくれるわけでもありません。
ウィトゲンシュタインというひとは、言語の限界が世界の限界だといいました。
学校もふくめた実社会で、ことに重んじられる論理的思考やコミュニケーション能力は、それはそれでけっこう役にたつものですが、しかし、そこでわるい評価をくだされる非合理なもの、通約不可能なものはたんに逸脱としてかたづけてしまってよいのでしょうか。世界をせばめてよいのでしょうか。
わたしは勉強は落ちこぼれにならないためにするものでなく、落ちこぼれになったとき、それでもどうやって生きていくかを見いだせるようになるためにするものだと考えています。
世のなかのためになる人間になろうと意気ごむより、だれの役にもたっていなくったって今日も口笛ふいていこう、とおもえるほうが、死からは遠い位置にいます。
世界にはいろいろなひとがいて、受験向きのひともいればそうでないひともいますし、医者になれるひともいればそうでないひともいます。「ふつう」の生きかたとされている会社勤めにしたって、万人にできるものではありません。
教育にできることは、無ではありませんが、無限大でもありません。
けれども、なりたいじぶんになれなかったとき、それでも、やりたいことをやっていくのならきっとたのしい人生になるでしょう。この「やりたいこと」を見きわめて、うまくやっていくために、ひろい意味での勉強はとても役だちます。
いくら「絶望だ」とおもっても、オイディプスのような行動に走ってはいけません。
まじめさは、道徳でなく、芸の問題です。道徳は、善悪の問題でなく、決まりごとの問題なのです。
はみだしものになってしまったとき、よいとかわるいとか、じぶんで考えられる底力がないと、なにかに翻弄されたまま、一生はすぎさってしまいます。
そのなにかを、モイラと呼ぼうとカルマと呼ぼうと勝手ですが、人生はしんどいものになるでしょうし、しんどいおもいをしたひとは、他人にもしんどさを強いる可能性がたかいでしょう。
そうすると、世界はますますしんどい場所になっていってしまいます。
のらり、くらりといきましょう。しなやかにいきましょう。神のことばだからといってぜんぶ聴かなくちゃいけないわけでもありません。聴かなくていいと言っているわけでもありません。