読解問題には、読み方・解き方がある!
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前回は読むことの基礎についてお話ししました。
ある文章を「読めている」というとき、われわれは、いまなんの話をしているのか、はっきりわかっている。つぎなんの話が来そうか、ほんのり予感できている。そしてその予感が外れたとき、柔軟に思い込みを訂正していくことができる。そういう話でした。
またそのために、語彙を増やしたり、いわゆる背景知識を蓄えたり、接続詞に着目したり、教室で、対話をかさねながら多くの問題を解き慣れたりすることが、とりあえずは有効かもしれないというお話をいたしました。
ではそれだけで「読める」ようになるかというと、なかなかむずかしいところです。
問題は、二つあります。
一つは、脳の負荷の問題です。
黙読は、傍目にはじっと文字列を眺めているだけにしか見えませんから、きわめておとなしい、休息によく似た行為のようですが、脳のほうはひっきりなしにせわしく稼働しています。
語を認識するたび意味を考え、文をとらえるたび前後の文との関係を量り、話題が転換されるたび、それまでの論の運びも頭にとどめながら読みすすめねばならず……。
このような作業を常時、おしまいの一語までつづけていかねばならないわけですから、じつは黙読は、ものすごいマルチタスクなのです。脳にたいへんな負荷がかかっています。
長い文章を読解しなければならない場合、目下読んでいる部分の解釈に全神経を使ってしまっていると、「あれ? さっきまでなんの話をしてたんだっけ?」「なんでここでこの話がでてきてるんだっけ?」こんなことにもなりかねません。
というか、ほとんどの場合、そうなります。
文脈を、見失ってしまうのです。そうなるともう、「いまなんの話をしているのか」を理解することはできません。
たとえば、独我論というものについての文章があったとして、そこでリンゴの例が持ちだされているときに、「ああ、リンゴの話をしているなあ」と認識するだけでは不十分なわけです。
「『独我論』っていう哲学的議論について説明するための補助として、リンゴの具体例に言及しているんだなあ」こう思わなければなりません。
それまでの話のながれを意識しながら、いまの一文も読み解かなければならないわけです。それをどんどん先へ、先へとつづけていくわけです。これはけっこう頭を使います。
頭を使っていると、余裕がなくなります。
余裕がなくなると、どうなるか。
「行間」というものが、読み取れなくなってしまうのです。
行間とはなにか? それは、はっきりと書いてはいないけれど(むしろはっきりと書いていないことによって)、文章のあちこちから感じられる、隠れた筆者の主張、あるいは物語文であれば登場人物の心理や思考、行動などのことです。
これは学校の勉強としての「国語」にかぎらず、本を読むとき意識してみてほしいのですが、すぐれた作家ほど多くは語らないものなのです(だから漫然と読んでいると「なにこの話?」で終わってしまうこともよくあります)。
意識してみてほしいのですが、といったってそれを意識するのがむずかしいという話でしたね。
むずかしいんです。
なじみのない概念語や学術用語の意味の推測、主・述関係が不明瞭だったり修辞的だったりして一見なにを言っているのかよくわからない文の意図の解釈、そもそもピンとこない主張への思いめぐらし、「時間内に読まなきゃ」という焦り、「わかんないなあ、つまんないなあ、お腹へったなあ」という雑念……。
こういうものに脳の全リソースを奪われてしまっている状態では、「行間」への気配りなどはとうぜんおぼつかないでしょう。
どうすればよいか。
もちろん、前回お話しした対策はどれも有効です。
たとえば、語彙を増やして「主観」「客観」こういうことばが「猫」や「バナナ」とおなじ程度になじんでくれば、解釈に脳がいちいち疲れることはなくなるでしょう。
接続詞を頭で覚えるだけでなく、じっさいに使い慣れるなどしてマスターしておけば、文と文のつぎ目ごとに「これは『順接』だから、ええと……」「『逆接』っていうことは、つまり……」とわざわざ頭を働かすまでもなくなります。
これらにくわえて、今回わたしがお勧めしたいのは「音読」です。
以前、古文の学習について書いたさい、異言語学習における音読の効用を強調いたしました。
母語でもおなじです。
読むことは身体知です。知識や概念を増やすだけでなく、感覚を養わなければうまくなりません。
文章のリズムを身体に叩きこむつもりで、とにかく毎日何べんもくり返し、くり返し音読してください。
最初のうちは、とにかく速く読むことだけを意識してみてください。高速音読です。
つっかえながらでもかまいませんから、速さだけを意識して、とにかく何度も声に出して読んでみてください。
毎日です。かならず毎日やってください。習慣にしてください。
一日十分でかまいません。
はじめのうちは、頭が疲れてしかたがないでしょう。急に眠くなってくることもあるとおもいます。
けれどもこらえて、ひと月、ふた月とつづけてみてください。
慣れてきたら、抑揚をつけてみてください。文章の意味についてもよく意識しながら、それができるだけつたわりやすくなるよう、こころを込めて、何度も読んでみてください。
二つ目の問題は、やや精神論的な話になってくるとおもいます。
思い込みを訂正する、ということについてですが、これは多くの生徒さんが苦手としていらっしゃるようです。
とくに、前回も書きましたが、読書好きの生徒さんほど、「思い込み」の論理を築き、維持していくのがうまい傾向にあると感じます。そうして、自分なりの理解をもとに記述答案をしあげてしまった結果、語彙も豊富で、長い文章もすいすい読めてしまうのに(読めてしまうからこそ)、まったく的外れなことを書いてしまっていることも少なくないのです。
思い込み、そのものは悪ではありません。
むしろ、必要なものです。
読みながら、「こういう話かな?」と絶えず頭のなかで仮説を立てていかないことには、深くなめらかな読みを実践することはできません。
けれどもその「仮説」というのは、ほとんどつねに挫かれるものだと思っていてください。
あるいは、当たったように思える場合でも、筆者の言っていることだけでなく、その「言いかた」のほうにも注意をむけてみてください。
文章のリズム。ことばの選びかた。そういった細部にも、気を配ってみてください。筆者の声を、聴きとろうとしてみてください。あなたの「思い込み」との、もっと深いところでの一致やズレが見えてくるはずです。
はじめての文章を読むときの態度として、もっとも望ましいのは素直であることだとわたしは思います。
といっても、なんでも唯々諾々と受け容れろというわけではありません。自分なりの考えを放棄しろということでもありません。
いわば、方法論的な素直さです。
目の前の文章で展開されているのが、どんなに納得のいかない主張だとしても、とりあえず、読んでいる間だけは「ふむふむ」といったん、真摯に向き合ってみてほしいのです。
そうでなければ見えてこないもの、聞こえてこない声が確実にあります。
もちろん、先述のとおり「思い込み」をこしらえたり、あるいは、「それはちがうだろ」と疑問を抱いたりしながら読むことは、大いにけっこうです。
それは、素直さと矛盾しません。疑問も思い込みも、読んでいる文章に触発されて生まれたものにはちがいないからです。
ただ、それらの思考に囚われすぎてしまってはいけません。かならず、疑問を抱いている自分、思い込みをもっている自分、そういった自分を冷静に観察し、場合によっては「まあまあ」となだめる第三の自分を高所にたもちつづけてください。
この「第三の自分」の存在感が増してくるにしたがって、「素直」でいることは容易になっていきます。
逆にいえば、さまざまな理由によって「素直」でいることのむずかしいとき、文章はわれわれになにも語りかけてはくれないでしょう。
そんなときわたしたちが聴くのは、われわれ自身の声ですらないのです。
文章を、わけても書物を真剣に読むなどというのは、ある意味ではたいへんにおそろしい行為です。
そこでわれわれは知らなかったことを知るだけでなく、「知っている」とか「知らない」とかいっているこの自分という枠組み自体を、大きく揺さぶられ、ぶち壊され、つくり変えられる脅威に直面しているのです。
それまでなんの問題もないように見えていた世界や日常が、じつは油断ならない驚異のかたまりだったり、複雑さの極致だったりすることに、突如として気づかされてしまう恐れがあるのです。
われわれはそれまで握ったと信じ込んでいた世界への幻想の主導権を手放し、わかったつもりでいた事物のわからなさにひりひりとしながら不条理な毎日を過ごさねばならなくなるかもしれません。
本を徹底的に読むというのは、じつはそのくらい危険なことなのです。
ですからほとんどの小・中・高等学校では、ともすると大学においてすらも、読むことについてあまりまともには教えてもらえません。
そんなことをすれば世のなかはめちゃくちゃになってしまう、という信のうえにかたちづくられた世界観、にもとづいて設計されているのがわれわれのよく知っている学校教育制度というものだからです。
どこからかすこし脱線してしまったようですが、「思い込み」の件にかんしてわたしがシンプルに言いたいのは、相手を疑うより先に自分自身を疑ってください、ということです。
いまの世のなかは効率よく快を稼ぎだすことに特化した、あるいはできるかぎりの不快の低減をもくろんだサービスがあまりにも多く、身も蓋もないかたちで実現されてしまっており、不都合なものはすべて死角に追いやって、見たい現実だけを見ることのできる体制がととのい尽くしてしまっていますから、せっかくの余暇時間にわざわざ本を読み、じぶんの世界だけが世界でないことを思い知らされるいらだたしさ、絶望にも近い自己変革のおそろしさを味わわされることなど、あまり求めている人は多くはないのかもしれません。
けれども、破壊のあとの再創造を担ってくれるものの最有力の手段として挙げられるのも、やはり書物ではないかとおもいます(もちろん、それがすべてだと言っているわけではありません)。
あなたと縁遠い世界の存在の痛感は、ほぼ確実に、よいか悪いかはべつとして、あなたを豊穣なひとに変えてくれるでしょう。読むことを通し、あなたはより多くの現実を生きるひととなるのです。
世界はいろいろと変わっていくでしょうが、もちろん大いに変わっていくでしょうが、ある意味では、大した変わりはないともいえるでしょう。
しかしあなたは、読むことによって、世界の変化を実感することができるかもしれません。
それくらいの可能性をもったいとなみのまずは初歩として、学校教育的な国語の勉強をやってみましょう。