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読解問題には、読み方・解き方がある!
なんとなく読み、なんとなく解くことをやめて、論理的な解法を習得してください。

わかりやすい文章の書き方を知っていますか?
作文と小論文の違いがわかりますか?
上手に書くためのコツを学びましょう!

苦手な方歓迎!古文・漢文が、最短時間で、正しく読めるようになるために。文法の知識と読み方とを丁寧に解説します。

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書くことについて

 講師の八柳です。書けなさにもいろいろあるようです。書きたいことがあるのなら、それを書いていけばよいのですが、どう書いてよいかわからないことも多いですよね。

 ここで締めきり日など喫緊の必要があれば、わたしは型をお伝えします。三段階構成とか四段階構成とか、序論、本論、結論……。世の中で一般的とされている文章がどんな体裁をそなえているか、それをいくつか示します。「はじめ」で主張を提示して、「なか」で根拠をつぶさに説き、「まとめ」は例えばこれからの展望なんかにふれてみる……。決まりのようなものはたしかに存在しているんですね。テクニックさえもあるんです。それを踏まえれば、推敲や書きなおしの末たしかにそれらしいものはしあがるんです。「おおー……」とわたしも思うんです。けれども内心、疑問を感じていることもたしかなんですね。書くってこんなことなのか、と。

 ほんとうは、試験も提出期限もないのなら、まずはルール無用でやってみてほしいんですよ。中身も構成もまったく決めないんです。とりあえず一文書いてみて、ことばの浮かぶままにポンポン遠慮なくつらねていくんです。考えたことを書くのでなく、書きながら考えていくんです。その結果、できあがった文章が何を言っているのかわからなくってもいいんです。読みながら、いっしょにじっくり考えてみましょう。たいがい何か見えてくるんです。気づくんです。「じつはわたし、こんなことを考えていたのか」。これが書くことの奇妙なおもしろさのひとつなんです。じぶんで思いも寄らなかったじぶんの考えが、原稿用紙に出現するんです。ただし、いつもそうなるわけではありません。これは、ノッて書いたときだけそうなるんですよ。こんなこと書いたら叱られるかな。笑われるかな。あんなふうに書かなくちゃいけないのかな。みんなはいったい、どう書いてるのかな。そんな不安にとらわれているうちは、むりなんですね。おもしろくない文章になるんです。これは作文にかぎらず、自由気ままにやれない仕事の産物は、たいてい見るに堪えないしろものなんですね。

「おもしろくない文章」のおもしろくなさの根源は、どこにあるのでしょう。それは笑いどころがないだとか、サービス精神が感じられないとか、あるいはエンターテインメント性の欠如とか……そういうことではないんですね。これはAIに文章を書かせてみるとよくわかります。ChatGPTの文章って、きわめておもしろくないんですね。それはなぜかというと、誰にでも書ける文章だからなんです。いくらでも量産可能な文章だからなんです。だから読んでいてもつまらないんですね。つまらないといっても、それはあくびをもよおすとか鼻くそをほじりたくなるとか、そういうつまらなさとはまたちょっと異質なような気がわたしはしているんです。なんだか世界の偶然性、生命の躍動性がひどくないがしろにされているような不安を覚えるんですね。不気味なんです。「死」を感じるんです。清潔な美辞とか、品行方正な決まり文句とかの器用な組みあわせのグロテスクな産物には。もっとも、これはいくらか趣味の問題でもあるのでしょう。わたしなど、三島由紀夫の小説世界のあまりにも過剰な構築性に「ウッ……」となってしまうのとちかいところがあるのかもしれません。

 もちろん誰もにおもしろい文章を書けとは言いません。試験やコンクール(コンクール向けの作文についてわたしに何かが言えるとは思えませんが)などで一定の成果をおさめたいということなら、その対策にむかっている一定の期間だけはおもしろさとは異なる価値観につくことも必要です。けれどもそのときでも、まるで社会主義国のリアリズム作家のように規範的、かつ工業的文章の量産に粛々と従事しなければならないみずからの悲喜劇的境遇を、どこか俯瞰的におもしろがりながら取り組んでいけたら、そこに、おもしろさを感じられるチャンスはあるかもしれませんね。

こんなふうに書いていて「アッ」と気がつきましたが、わたしは、誰もの精神に夜になったらひとりでに動きだすびっくりオモチャ箱が蔵されているという暴力的な楽観論をとっているわけでもありません。ちらかすことが好きなひと、ととのえることの性に合うひと、いろいろいると思うんです。けれども誰しもが、固有の深遠な宇宙をひめているという前提で、生徒さんがたと接しています。その宇宙に書くことで乗りだすも乗りださないも、かれらの「自由」です。「行くぞ」のひと意気で行けるところでもありませんし、もどるすべを知らず、月面にでも住みついてしまえばごく地上的な重力に再度適応しがたいほど精神の一部が衰弱してしまうこともありえます。それでわたしは、人をできるだけ見きわめてそれぞれに合った宇宙探検法を提案していますが、今後ますます過大になっていくことの考えられる世間的なもろもろの重圧から解き放たれるすべを体得しておくのは、小器用なプレゼン資料を手ばやく量産する技能を身につけるより、人間関係を自在に駆動するおしゃべりの魔術を習得するより、本質的に有用なことなのではないかと考えております。生きやすさとは、つまるところ、自分自身との対話の回路をどれだけ多様に持っているかということではないでしょうか。それが完全に遮断されていれば、いかに光輝ある肩書きの所有者だろうと呆気なく鬱にさえ陥ってしまうんです。「いったい人生とは」と謎めいた後悔のなかで死んでいくことにさえなりかねません。

書くことは、自由になるためのひとつのやりかたです。書くことですぐ幸福になれるわけでもありませんが、幸福の定義を拡張することはできます。これが自由のはじまりです。けばけばしく威勢のいい窮屈なことばの秒速で飛び交っている現代社会では、深くゆったりと考えるために原稿用紙のマス目を愚直に埋めていくよりすぐれた方法はあまり存在しないのが実情です。「こころが洗われるようだった」。「考えさせられるできごとだった」。こういう麗し顔した常套句たちが、あなたの苦境にあるときほんとうに、あなたを救ってくれますか。固有の地獄を生きぬくよすがになりますか。サーッと引いていくんです、そういうありきたりなことばたちは、ほんとうにつらいとき、いつの間にか姿を消している、元金持ちの、素性のしれない取り巻きたちのように。ことばは、思考そのものです。おそろしい、おぞましいことなんです、一度じぶんの果てまで徹底的に冒険してみてもいないうちに、できるだけ皆の輪からはみださない範囲で思考を済ませようなどと取り決めてしまうことは。思考は、ほとんど現実そのものですよ(すべてではありませんが)。

 わたしは、とにかくノッて書ける環境を用意したいと考えています。じっさい生徒さんがたがノッてくれているかどうかは、わかりません。今度聞いてみます。でも、とにかくもりもり書いてくれてはいます。

作品は、めちゃくちゃでもかまいません。単語の羅列でもかまいません。いっしょに読み解きます。お話を聴きます。どうすればもっと納得のいくかたちになるでしょう。いっしょに考えましょう。型や構成がなぜ要る(とされている)か、そのとき理解できるでしょう。

 ブルース・リーは、型を壊すためにはまずその型を身につけなければならないと言いました。リーはいいですよ。だって格闘技が好きなんですから。自発的に究めたいと思っているんですから。でも、文章嫌いの子がはじめっから型だのお手本だの押しつけられたところで、うんざりしてしまうのは当然なんです。放棄しちゃって当たり前なんです。そもそも書く意味がわからないんですから。意味のわからないことへは、われわれは、誰だってなかなか惹かれないでしょう。

それに、ある意味残酷な、ある意味においては幸いともいえる可能性をはらんだことですが、ある種の人たちは、型の習得、それだけに一生をついやしてしまいかねないんです。何枚書いても「巧く」なれないんです(それこそがすばらしい才能なんですが)。それでけっきょく「作文ってこころにもない嘘を書かなきゃいけないんだな」「つまんないな」というような固定観念が強固に根づいて、それはとうとう文章全般への手のつけようのない苦手意識へと繁茂していきかねないんです。

 言語活動は人間生活の基礎です。ことばは、われわれのあるじです。ことばでものを考えるというより、ことばが、ものを考えるんです。それなら、ことばの柔軟性はできるだけ高めておいたほうがいいのではないでしょうか。ことばの柔軟性を高める、それは、ことばの放牧術を心得ることです。ことばを完全に管理下に置くのでなく、さりとて野生化させるのでもなく、ことばが生じる、出てくる、つながっていく、そして、あらたなことばを呼んでくる。こういう一連のながれについて、できるだけ他人事として目をひらかれる不思議な経験を、気負わず妥協せず前のめりにもならず、つみ重ねていくということです。書きたいことのないひとでも大丈夫です。少しくらいなら書いてみてもいいかもしれないことのしっぽをいっしょに探しましょう。それもなければいっしょに困りましょう。目下まったく関係のない話をしたり、ぼんやりしたりしてみましょう。なにか出てくるかもしれません。けれども、ほんとうはそういう焦慮とかすけべ心とかは、できるだけ抱かないほうがいいんですが。どんなに期限がせまっていても、運命論的な静観が最善手であることも、時にはあるのです。望ましいのは、あなたのながれに従うことです。あなた自身のリズムに乗ることです。そのためのお手つだいをわたしはします。教師にできる最上の仕事は、けっきょくは賦活です。

 次回は、この「リズム」ということについて(あるいはそれをきっかけになにか)、気が変わらなければ、なにか考えてみたいと思います。気が変わったら、そのときに書きたいことを書きます。書きたいことがなければ、書きたくなるまで更新はひかえます。

 



投稿者: フィロソフィア国語教室投稿日時: 2024年9月7日 12時47分